下関の乃木神社へ行ってきた。乃木大将について色々調べてみた。

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2020年1月
山口県下関市長府にある乃木神社に行ってきた。日露戦争の英雄乃木希典大将を祀ってあります。この辺りは武家屋敷だったところで、土塀と石畳の小道など、非常に風情のあるところです。全国に乃木と名の付く神社、公園、会館、地名(坂)などがあります。アイドル名もありますね。それだけすごい人なわけです。ここには、乃木神社のほかに、復元された旧家や遺品などを収めた乃木記念館があります。

日露戦争で有名な乃木希典大将ですが、山口県下関市の城下町で少年期を過ごしました。たぶん乃木少年はこのあたりの小道を走り回ったことでしょう。乃木希典将軍の生まれは、江戸にある長府藩上屋敷。父・希次は毛利藩藩士。この江戸の屋敷は赤穂浪士10名が切腹するまで預けられた所。「昔、赤穂浪士がここに滞在したんだよ」と教えられて幼少期を過ごしたのかも・・・江戸で10歳まで過ごしたあと、この山口県下関市長府へ移り住んだ。昔の武家屋敷の名残の土塀がすごくいい雰囲気を醸し出しています。

↑これが乃木神社です。行ったときには、近くの中学生20人程度、先生に連れられてお参りしていました。神社の神主さんが必勝祈願なんたら言っていたので、なんか運動部の生徒かな・・・

この神社のそばに、乃木大将が10歳から過ごした家がありました。本当に小さな家です。(復元)

10歳から16歳までこの小さな家で過ごした。ここで馬術、弓術、砲術、槍術、剣術などを学び始めた。すごく有名な人なのに、小さすぎる程の家で、少し驚きました。6畳と4畳の部屋しかありません。川の字になって寝たんでしょうね。

父、母と乃木少年(右)です。16歳になった乃木少年は、歩いて70km離れた萩まで行き、兵学者玉木文之進に弟子入りした。兵学者を目指していたんですね。

↓乃木大将の歩みをまとめてみました。

  • 1849年 0歳  江戸にて生まれる
  • 1865年 16歳 奇兵隊 小倉戦争
  • 1876年 27歳 秋月の乱 萩の乱
  • 1877年 28歳 西南戦争 中佐
  • 1878年 29歳 静子と結婚
  • 1879年 30歳 大佐
  • 1885年 36歳 少将
  • 1887年 38歳 ドイツ帝国へ留学
  • 1894年 45歳 日清戦争
  • 1895年 46歳 中将
  • 1896年 47歳 台湾総統へ就任
  • 1904年 55歳 日露戦争 第3軍 大将
  • 1905年 56歳 旅順要塞攻略 奉天会戦
  • 1907年 58歳 学習院院長
  • 1912年 63歳 明治天皇崩御 乃木自刃
(水師営の会見)

日露戦争の英雄です。第3軍司令官として活躍しましたが、旅順攻略などは最激戦でした。この戦いでは、両軍あまりに多くの兵を失っています。旅順要塞のステッセリ司令官が降伏した水師営の会見では、敵将の名誉を考え、この写真以外は撮影させなかった。この写真が世界を駆け巡ると、世界は驚愕した。負けたロシア側も剣を付けたまま(帯剣)なのである。降伏後、負けた方も剣を帯びて話し合いの席に着くことは通常絶対にありえないことでした。乃木将軍が敵将の武人としての名誉を重んじたということが理解されました。後日ステッセリ将軍は旅順敗北の責任を負わされ、死刑宣告されたのですが、乃木大将の助命運動により禁固10年に減刑されました。

奉天会戦では、旅順を落とした乃木大将の第三軍を非常に恐れたクロパトキン総司令官はうまく作戦を遂行することが出来なかった。日本はロシアに辛勝したものの、両軍あまりに多くの兵が死んでいます。自責の念から乃木大将は、死んで帰国したい、日本へ帰りたくない、中国に残りたいというほどだった。それに反し、日本では英雄の凱旋に多いに沸いていた。乃木は歓迎会の招待を全て断った。周りの浮かれ具合とは裏腹に、乃木大将はもう後悔の念でいっぱいでした。

(乃木大将と2人の子供の帽子)

最後は明治天皇の崩御を受けて、自宅にて割腹自殺、意図せず妻も後をおい自殺。武人として世界中から高い評価を受けていただけに、葬儀に参加する外国人も多かった。日露戦争で戦死者を数多く出したことを悔やんでしますが、それだけ過酷で難しい戦場でした。日清戦争にも行っていますが、被害は比べ物にならず、日露戦争はとても勝ったとは言い切れないほど。新聞雑誌は良いことを書き綴り、世論は大いに盛り上がっていましたが、もう現場は両軍瀕死の状況で、地獄そのものでした。息子さんも失い、死に時を捜していたのかもしれません。

↑二人の息子:勝典(かつすけ)中尉、金州北門外にて負傷後死亡、享年26歳。保典(やすすけ)少尉、203高地背面にて戦死、享年24歳。2人の息子さんも日露戦争でなくなっています。一人目が亡くなったときに、気の毒に思った司令官がもう一人を後方へ転属させたのですが、それでも亡くなりました。二人亡くなったのに、乃木大将はこれで国民の皆さんに顔向けできると語ったそうです。

(参照:ウィキペディア、他)

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