末松謙澄(すえまつけんちょう)・・・生誕の地を見てきたよ。

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2020年7月

日露戦争の事を調べている時に知った「末松謙澄」。生まれた地が意外と近くにあるということで、行ってまいりました。場所は福岡県行橋市前田にあります。あとはググって頂きますよう願います。田んぼが広がり、川沿いのちょっと民家が立ち並ぶ細い道を進んだところにぽつんと、ありました。末松謙澄生誕の地の石碑。周りは田んぼ、川、森、住宅、道路・・・まあのどかな感じです。

↓「くまもとばし」と書いてます。ここに立って周りを見渡せば、20mくらい離れた所に石碑が見えます。でも最近はスマホの地図で一発でたどり着けるので大変便利ですね。

↓結構しっかりとした大きめな石碑です。お金かけてるなあって感じ。生誕の地ですが、家が残ってるわけでもありません。農民の暴動で家が焼かれていますので、たぶん残ってないんだと思います・・・

一応謙澄さんの経歴です。

  • 1855年 大庄屋の4男として生まれる
  • 1865年 10歳で私塾水哉園(すいさいえん)入門
  • 1871年 16歳で上京
  • 1874年 東京日日新聞入社(19歳)
  •     新聞社社長より伊藤博文に紹介される
  • 1877年 西南戦争従軍(22歳)
  • 1878年 英国ケンブリッジ大へ留学
  •     留学中、源氏物語英訳し、出版
  • 1886年 日本へ帰国
  • 1888年 文学博士になる(33歳)
  • 1889年 伊藤博文の次女、生子と結婚(34歳)
  • 1890年 第一回衆議院選挙で当選
  •     法制局長官、通信大臣、内務大臣歴任
  • 1896年 貴族院議員に(41歳)
  • 1904年 日露戦争中、ヨーロッパにて戦時外交(49歳)
  •     法学、文学、史学、美学、等著作多数200超
  • 1920年 死去(享年65歳)(スペイン風邪による)

↑周辺は森があり、池がありとても自然豊かな所です。

庄屋とは、村を束ねる村長さんのような立場で村の自治一般をつかさどる。地域によって、名主、肝煎(きもいり)などと呼ばれる。大庄屋とは複数の村々(10以上もある)を束ねる存在で、相当権力があり、お金持ちであったと思われます。

地元にこんなすごい人がいたとは知りませんでした。伊藤博文と親戚だったとは・・・40代で大臣を歴任しています。今に比べるとずいぶん若いですね。若ければいいというものではありませんが・・・現在日本の閣僚の平均年齢は62歳(2017年データ)でG7の中では一番高いです。カナダが最も若く50歳です。女性の起用も日本は遅れています。女性閣僚の一位がスペインで67%だとか・・・すごい・・・日本は16%で世界113位とのこと。

すみません、だいぶ話がずれましたが、末松謙澄さんに戻ります。謙澄さんは高橋是清と大親友で、お互い得意な分野(謙澄さんは漢学、是清さんは英語)を教え合います。東京でお互い18歳、19歳のころです。生活費はどうしていたのかと言うと、当時無かった欧米の新聞を翻訳して売り込めば商売になると新聞社を回り売り込みました。すごいです、10代で起業する人は今でもいますが、ものすごいやる気を感じますね。これがきっかけで東京日日新聞社に入社することになります。20歳の謙澄さんは、社説を任され政府批判を繰り返し、伊藤博文に目を付けられます。批判されても目をかけ、留学させ、娘と結婚させ、大臣にまでするわけですので、伊藤博文の懐の広いこと、広いこと・・・留学中でも謙澄さんの政府批判はやみませんでした。伊藤博文も、かなりハラハラさせられたよう。言うべきことはきちんと言う芯の通った方のようです。

日露戦争では、戦時外交として、アメリカへの広報活動として金子賢太郎、ヨーロッパでの広報活動として末松謙澄さんが活動しました。

すごい能力とやる気と根性の偉人が意外と近くの人だったなんて・・・驚きです。

↑自然豊かな所です。明治の政治家なんて、伊藤博文くらいしか知りませんでしたが、意外と近くにすごい人がいました。ちなみに東京日日新聞とは今の毎日新聞の前身とのこと。二十歳前後で高橋是清と英語の新聞を翻訳して、各新聞社に売り込みに回る姿を想像するだけでワクワクします。歴史、文化、政治と幅広い分野で活躍し、知識欲の塊で、やる気に満ち溢れていたようです。

(出典:ウィキペディア、西日本シティ銀行、その他)

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