下関要塞 火の山砲台跡へ行ってきた。

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2020年1月。少し時間が経ってしまいましたが、下関の火の山砲台跡をみてきた時の記事です。関門海峡に面した山口側、海岸沿いの山で[火の山]、その山頂にある火の山公園です。標高は268mでそんなに高くはありませんが、関門海峡を望む山頂からの見晴らしは最高です。

↑写真の奥が北九州市門司になります。関門海峡を通る外国の軍艦にここから砲撃することを想定していました。

↑戦艦大和の46センチ砲の砲弾まで展示されてます。当時世界最大の大和の主砲です。

この下関要塞は、関門海峡へ侵入してくるであろう清国の艦隊(北洋艦隊)やロシア艦隊を意識していました。下関側と北九州側、その間にある島々に堡塁や砲台、指揮所、その施設全体の事を言います。明治20年(1887年)に設置とあるので、これから起こるであろう日清、日露戦争をにらんでいたんでしょう。

↑周りは公園ですので、木に囲まれていて、子供の遊ぶ遊具などもあります。自然に溶けんこんでいます。

下関要塞の一つとして関門海峡を見下ろせるこの火の山山頂に砲台が設置されました。この火の山には第1~第4砲台が設置されていましたが、現在は第3と第4の砲台跡を見ることが出来ます。ひょっとするとこの関門海峡も日清日露戦争の舞台になったかもしれないと思うと、ぞぞっとしますね。

そして時が流れ、太平洋戦争中には高射砲陣地になっています。この近くには北九州の小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)がかつて存在しており、銃や砲弾などを製造していて、重要拠点の一つでした。1887年当初は、外敵の軍艦に対して砲撃を行うための砲台や、堡塁(小型の要塞、コンクリ製の陣地)が設置されて、航空機の発達とともに、高射砲陣地へと変わっていきました。

小部屋が分かれています。ここに砲弾や武器等が保管され、指揮、観測等が行われていました。

ここ下関要塞火の山砲台は、1887年から太平洋戦争終戦の1945年まで日本の防衛に貢献しました。

多くの兵士がここで、警戒監視を行っていました。太平洋戦争では、関門海峡に米軍機から多くの機雷が投下されています。また北九州への空爆もかなりの回数行われています。それらに対処するため、この火の山砲台の高射砲から攻撃を行いました。

28センチ榴弾砲です。日露戦争の旅順攻略にも使われた砲です。最大射程は7800mとのことです。

↑ベンチとテーブルが設置されて休憩が出来るようになってます。元は側砲庫といい、弾薬が保管されていました。

(参照:ウィキペディア、ニッポン旅マガジン、その他)

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