日露戦争(1904~1905)の前ってどんなの?調べてみたよ。

この記事は約8分で読めます。

日露戦争の両国の戦力比較

国家予算

  • 日本   2.9億円
  • ロシア 20.8億円

戦費

  • 日本   15億円
  • ロシア  22億円

動員可能兵力

  • 日本  100万人
  • ロシア 200万人

軍艦総排水量

  • 日本  22万トン
  • ロシア 80万トン

これらの比較を見ればもうロシアがいかに強大であり、とても日本が戦っていい相手ではないことが分かります。戦費に関しては日本は借金をしまくってこの金額です。ロシアは総力戦というよりも、極東地域での戦争といった感じです。国家予算で7倍以上の相手。三国干渉でロシア、独仏が遼東半島を清国に返せと言ってきてから、日本は悔しくて、悔しくて、臥薪嘗胆をスローガンに強兵政策を進めてきました。でも軍備を拡張しても拡張しても、とてもロシアには追い付けません。当時ロシアはイギリスに次ぐ超大国でした。陸軍だけで見ると世界最強最大でした。イギリスが大学生としたら、ロシアは高校生で、日本は小学生と言ったところでしょうか。ロシアはロシアで弱小国日本を見下して、南下政策をつづけ、満州に居座り、朝鮮にまで力を及ぼそうとしていました。もう日本まで取られるのも時間の問題と思われました。幕末の※対馬占領事件も頭によぎったと思います。何としても朝鮮半島を独立国として独り立ちさせ、緩衝地帯として存在させたかった。しかし朝鮮も完全に独立国となるには、弱すぎた。だから日本の保護国化を考えていた。ロシアに対して悔しい思いは、確かにあるのですが、何としても戦争を防ごうと伊藤博文を中心にロシアと粘り強く交渉を続けていきます。1903年8月日露交渉においては、朝鮮を日本が支配、満州をロシアが支配するという妥協案(満韓交換論)を提案するも決裂。戦争へと突入していきます。

(出典:めちゃめちゃ愉快な反省坊主)

↑ロシアは大きな白熊に例えられ、日本は小黄猿と揶揄され、世界中から「大国ロシアと喧嘩するなんて、かわいそうなアジアの小国」と言われていました。

幕末のロシア軍艦対馬占領事件

1861年ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の尾崎浦にきて、測量を開始。日本側が抗議するも、船を修理するだけだといい、工場、兵舎、練兵場まで建設していった。さらには資材、食料、遊女まで要求する始末。ロシア兵による襲撃や略奪事件も起こされたが、絶対的な軍事力を示され、黙らざるを得なかった。最後はイギリス軍艦に圧力をかけてもらい、撤収させた。対馬を取られる寸前であった。ぎりぎりで英国に助けてもらった。(英国にも思惑有り)

(参照:ウィキペディア、他)

日露ともに、好戦派、非戦派がいて、どうすればいいか当時の人々は必死になって考えました。ロシアとしては、ケンカしても弱小日本に負けることはないにしても、やり合う必要があるのか、いや、戦力で比較にならない日本に全く譲歩すべきでないという考えまで様々。もちろん日本としてはドンドン南下してくるロシアが怖くてたまらない。満州まで来て、朝鮮にまで来ようとしている。次は日本にやってくる。対馬占領事件もあり、ロシアへの不信感はどうしようもなかった。日清戦争後、臥薪嘗胆で毎年毎年国家予算の4割以上を軍事費にあてて、軍事増強を図っていたものの、ロシアに勝てるはずもなかった。

日露戦争の原因としては、義和団事件後、ロシアが満州に居座り、朝鮮半島における日本の権益を脅かしたことに起因します。ロシアは、格下の日本が仕掛けてくるわけがないと、高を括っていたことも大きいと思います。もう少し日本が強ければ、ロシア側も本気で交渉でけりをつけようとしたでしょう。日本も、朝鮮半島でもう少し譲れなかったのか・・・ロシアは朝鮮半島まで取るつもりは無かったという人もいて、どれが真実なのか悩みます。あまりに両国被害が多すぎて、本当に開戦しなければならなかったのか、もっと手は無かったのか悔やまれます。でも人も動物。たとえ微妙なバランスの上、均衡が取れていたとしても、ちょっとのことで、崩れたでしょう。弱いと思ったら舐めてかかり、やれると思ったら、やってくるでしょう。人も動物です。こういう時こそ政治が物を言います。

日英同盟1902年

このまま大国ロシアと戦争になれば、(ドイツ:確率低)やフランスと一緒に攻めてくるかもしれない。清国だってありうる。ロシアだけでも大変なのに、日本はボロボロに負けてしまう。そこでロシアの南下を防ぎたいイギリスと手を組むことにした。日英同盟である。同盟というと一緒に戦ってくれるというイメージであるが、この日英同盟はもしロシアと戦争になったとき、タイマン勝負なら見守るが、相手が仲間を連れてきたときは、一緒になって戦ってくれるというもの。イギリスも新興で弱小の日本がロシアに勝てるとは思ってないが、時間稼ぎぐらいはしてくれるだろうと思っている程度。義和団事件での日本の評価も高い。日本も利用されているのは分かっているが、後ろについていてくれるだけで、ものすごく心強いし、ありがたい。実際、ロシアの味方をけん制するには十分な存在だった。それだけ、当時のイギリスは最強最大であり、弱小日本と対等な同盟を結んだことに世界が驚いた。ジャイアンとのび太がある朝、一緒に肩を組んで登校してきたようなもの。さぞかし驚いたであろう。特にロシアは・・・。

Union Jack; the national flag of the United Kingdom.

英国は軍事的には何ら支援はしてくれないものの、金銭面での支援、日本への情報提供やロシア艦へ寄港拒否をするなど(影響下にある世界各国)で、かなりの協力をしてくれていた。これらの支援がなければ、日本は絶対にロシアとの戦争は決して出来なかった。

ぎりぎりの判断

日英同盟前になるが、日本では、日英同盟論と日露協商論に二分していた。日英同盟論とは、イギリスと手を組み、ロシアと戦争も辞さずという考えで、山形有朋、桂太郎が中心。世論も大半が日英同盟を支持。一方日露協商論とは、満韓交換論のこと。満州はロシアが、韓国は日本という形で、ケンカせず妥協点を見つけていこうというもの。伊藤博文、井上馨らが中心。明治天皇も支持。普通に考えて日露協商論がいいと思うのですが、当時の日本は、遼東半島を取られたロシアに恨みがあり、軍拡で長年苦労に耐えてきて、帝国主義の時代背景もあり、戦争やむなしという人が多かった。気持ちは分かるが、冷静になってほしい。7倍の敵である。

1903年8月日本はロシアに満韓交換(満州と韓国を仲良く分け合う)を提案するも拒否される。「坂の上の雲」で描かれていた、エブゲーニイ・アレクセーエフ極東総督は対日強硬派の一人。この人が日露戦争の原因であるという意見もあるくらい。戦争を防ぐため、日本に融和的な内容の手紙がロシア皇帝からくると、この総督が握りつぶしたとされる。(ドラマで見たときは、本当に心底この総督ひっぱたいてやりたかった。)実際ロシアの政権内でも、好戦、非戦に揺れていた。たまたま、この時期この愚かな総督であった為に、開戦へ大きく踏み出したと言える。(諸説あり)

ロシアの南下に対する恐怖と、遼東半島を取られた恨み(ドイツ主導と言われる)で揺れ動くなか、軍備増強、日英同盟と準備は怠らなかった。同時にいかに戦争を防ぐか、必死だった。7倍の敵である。怖くて怖くてどうしようもない。ただ、勝てる見込みがあるとすれば、万が一勝てるとすれば、局地戦で勝って、早い時期に大国に講和を仲介してもらうことである。望みはこれだけだろう。

ロシアは広大で、東西に長い国土を持っている。極東に配置されている陸軍と、海軍は限られており、それだけならば日本としてもある程度やり合えるのではないかと考えられていた。もちろん戦争が長引けば、ヨーロッパに展開している兵士や、軍艦が極東へ送られてくることになるから、早期で決着をつけなければならない。

1904年(明治37)2月8日~日露開戦

日露戦争で海外で活躍した日本人

金子賢太郎

(出典:ウィキペディア)(金子賢太郎)

最後まで反対していた伊藤博文は、開戦が御前会議で決定されると、すぐさまアメリカに金子賢太郎を送り込んだ。金子賢太郎はアメリカで国際世論を味方に付けるための広報活動(講演会や新聞雑誌等)、セオドアルーズベルト大統領との直接交渉など精力的に活動した。講演会では、開戦に至る経緯を説明。たとえ日本が滅ぼされても、正義の為、国を守るために戦ったことが歴史の1ページに刻まれれば我々日本人は満足だと、日本人の決意、武士道精神を彷彿とさせるような内容で、アメリカ人の心を掴んでいった。またこの大役に金子が抜擢されたのも、セオドアルーズベルト大統領と友人であり、ハーバード時代の同窓生だったということもあった。ルーズベルト大統領は終始金子の理解者であり、早期講和の仲介も快諾してくれ、助言なども積極的に行ってくれた。

高橋是清(資金調達)資金がなければ100%負けてた!!この人の働きはすごい。もう、ギリギリのギリギリ、すさまじい運をつかみました。おみごと

末松謙澄(ヨーロッパでの広報活動):金子賢太郎と同様の使命、福岡県行橋市出身の政治家。(スエマツケンチョウ)と読むそうです。

明石元二郎(諜報活動)スパイの神様!ゾルゲが尊敬!世界のスパイのお手本!すご過ぎです。

あとがき

この巨大なロシアに対して、戦争回避のための努力をし、それでも開戦がやむを得ないとなったときに、即座に戦局を有利にするための方策をとり、早期講和までのシナリオを描いた当時の政治家には、頭が下がります。日本はぎりぎりまで追い詰められ、国が無くなる可能性だってあったわけです。最後の最後まであきらめず踏ん張った当時の日本人は本当にすごいとしか言えません。目の前に熊みたいに大きい不良が現れたときに、目を背けず、一歩前へ出たことがある人は、なかなかいないと思います。やむを得ない決断だったとはいえ、私もきちんと前を向いて歩いていかなければと感じました。

(参照:ウィキペディア、松下政経塾、他)

タイトルとURLをコピーしました