1905日本海海戦について。すごい。日本の大勝利!福津市東郷神社

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(出典:坂の上の雲)

はじめに

今回は1905年の日本海海戦についてです。いろいろ調べてみました。すごいです。日露戦争の最後の戦いです。絶対に負けられない戦いってやつですね。日露戦争が始まって、弱小国と思っていた日本に苦戦させられ、ロシアのバルチック艦隊をヨーロッパから極東へ向かわせます。このバルチック艦隊と旅順港に籠っている旅順艦隊で日本の連合艦隊を殲滅しようということです。以前の記事でも書きましたが、日本側もすさまじい犠牲を払いながら、日本陸軍は旅順を攻略し、旅順艦隊を壊滅させます。その報告を聞いたバルチック艦隊のロジェストウエンスキー中将はどれほどがっかりしたでしょうか。1904年10月15日にロシアのリバウ港を出港してアフリカの喜望峰を経由して7か月かかって日本近海までやってきました。イギリスは日本と同盟を組んでいるので、支配下にある国々に指示してロシア艦には補給や寄港をさせなかった。もうヘトヘトの状態のバルチック艦隊は何があってもウラジオストック港にたどり着きたい。でも日本側がどこで待ち伏せしているのか分からない。対馬海峡を通るか、太平洋側を通るか?悩みに悩んで、対馬海峡を進むことを決断します。

(出典:ウィキペディア:旗艦三笠)

撃滅セントス

もちろん日本側も絶対にウラジオストクまで行かせるわけにはいかない。どこを通るか検討に検討を重ね、対馬で来ると予想し、哨戒態勢をとる。1905年5月27日午前4時45分、哨戒活動をしていた信濃丸は、夜が明け初め、朝靄の中、気が付けばロシアバルチック艦隊のど真ん中にいた。焦った成川大佐は至急船の進路を変えその場を離れると同時に「敵艦隊見ゆ」と打電した。その後もバルチック艦隊と並走しながら監視を続けた。対馬沖を北上しながら、バルチック艦隊司令官のロジェストウエンスキー中将は、徐々に増えてくる日本の監視船をみて、もう決戦は避けられないと悟った。打電を受け、東郷平八郎は全艦出撃を命じ、「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども波高し」と大本営へ打電した。

(出典:ウィキペディア)

Z旗

鎮海湾を出港した旗艦三笠を筆頭に連合艦隊主力部隊は、5/27の13時39分対馬沖でバルチック艦隊を発見。バルチック艦隊を南西に見ながら北西へ進む。13時55分旗艦三笠にZ旗が掲げられた。この旗はこれが最後だという意味で絶対に負けられないという意味のZである。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

(出典:ウィキペディア)

この旗は後続艦に次々と伝えらえれていく。すると乗員から歓声と雄たけびが上がるのだ。強国ロシアのバルチック艦隊を前にしても全く臆することのない兵士たち。一人一人の意思の強さというのも、間違いなく戦闘で最も重要な要素の一つである。双方双眼鏡で相手の動きを見ながら進路を決めていく。日本の連合艦隊はいろいろ舵を切りながら少しトリッキーな?動きを見せる。お互い平行にすれ違いざまに打ち合うのを反攻通過戦闘と言いますが、当然ロシア側もそう来ると思っていたと思います。当然反抗通過するように日本側は進路を南西へ向けます。しかし日本側はT字戦法を取ると決めていました。(丁字戦法ともいう)

敵前大回頭

(出典:ウィキペディア)

14時5分。ロシア側との距離8000m。東郷平八郎は右手を上げ、大きく左へ半円を描くように振り下ろします。のちに東郷ターンと言われる。即座に艦長が「取り舵一杯」と叫ぶ。旗艦三笠以下主力艦15隻は次々と回頭を始めます。敵前で回頭するのは通常ありえないことです。船が大きく傾き、揺れるため、回頭中は一切攻撃できません。その様子を見ていたロシアのロジェストウエンスキー中将は、一体東郷は頭がおかしくなったのか!でもこれはチャンスだということで攻撃を指示します。ロシア側の砲撃から始まりました。ものすごい数の砲撃の嵐です。連合艦隊旗艦三笠の周辺には砲弾による水柱がひっきりなしに上がります。もう水柱のカーテンがそこにあるかのような状態だったそう。連合艦隊側は回頭が終えるまで耐えるのみです。しかし、東郷司令長官も計算づくです。距離7000m以内でないとそうは当たらない。ロシア艦の射程や、兵士の訓練度、ロシアの砲弾の威力など様々な情報からこのT字戦法を採用したんです。この大回頭が終わるまでの10数分間、ロシア側はすさまじい攻撃を加えたにも関わらず、ほぼ損害を与えることができずに、気が付いたら日本側に有利なT字の形になっていたというわけです。

(出典:時事コム)

実際はT字ではなく、カタカナの「イ」のような感じです。当然ロシア側は右に舵を切りますが、日本側はさらに頭を押さえるように回り込む形を取ります。このT字戦法のメリットとしては相手の一番先頭を全艦艇で集中攻撃できることです。ですので前から一隻づつ撃沈させられるわけです。当然動きながらですので、そこまできれいにはイメージ通りにはいきませんが、この日本海海戦は世界史史上最もT字戦法がうまくいった戦いでした。

反撃開始

回頭を終えた連合艦隊は「次はこちらの番だ」とばかりに砲撃を開始します。14時10分先頭の旗艦三笠が砲撃を開始。距離6000m。三笠に続き、敷島、富士、朝日、春日、日新と回頭を終えた順に砲撃開始します。

(出典:坂の上の雲)

日本側の砲撃は正確で、確実に捕らえていきます。また日本側の砲弾は、ロシアのより爆発力の大きい下瀬博士の開発した下瀬火薬が使われており、さらに伊集院少佐の考案した伊集院信管により砲撃の効果が高まっていた。それに合わせて、バルチック艦隊がやってくるまでの間、連合艦隊は何度も何度も訓練を繰り返しひとりひとりの練度を上げていた。砲撃の数ではロシアが勝っていたが、砲弾の威力と正確性では日本側がはるかに勝っていた。もちろん運も良かった。練度を上げたからと言って、これほどまで大差で勝つことはあり得ない。日本側はほぼ致命的な損害はない。ものの30分で勝敗は決した。ロシア側はチリジリに逃げていく。

(出典:坂の上の雲)

追撃

戦闘中、ロジェストウエンスキー中将は大けがをして指揮権が「ニコライ一世」のネボガトフ少将に移った。2日目の5月28日、日本の連合艦隊は、敗走しているロシア艦「ニコライ一世」他3隻を発見し、包囲、砲撃を開始、間もなくネボガトフ少将の乗ったニコライ一世は降伏旗を揚げた。しかし東郷平八郎は攻撃をやめない。参謀の秋山は「長官、武士の情けです、発砲をやめてください」と懇願した。それでも東郷は攻撃をやめない。なぜなら本当に降参する気なら、機関停止させるべきだから。降参したように見せかけて、逃げるのを今までに経験してきたから。さすがである。すぐにそのことに気が付いたネボガトフ少将は全艦機関停止させ、日本の国旗を掲揚させた。

(出典:weblio)

この後、「ニコライ一世」と他3隻とも拿捕され、兵士は全員捕虜となります。前日の戦闘でボロボロのロシア艦には、囲まれた段階でもう助かる道はなく、ロシアに戻れば軍事法廷にかけられることを承知で、ネボガトフ少将は降参したんです。これらの船には2000名以上の兵士が乗っていました。彼らの命を救うため、死刑になるのを承知で降伏旗を揚げたんです。実際、ネボガトフ少将は軍事法廷で戦闘放棄の罪で死刑宣告を受けるも、減刑され懲役刑になっています。

バルチック艦隊の旗艦スワロフをはじめ、ロシアの大半の船(全38隻中21隻が沈没)が撃沈され、あとは拿捕か中立国抑留となっています。日本側の損害は小型の水雷艇3隻が沈没したのみです。戦死者は日本側が117名でロシア側が4830名です。戦死者で勝敗は決まりませんが、同じような戦力の場合、通常2倍でも大勝利と喜ぶでしょう。この戦いでは死者数、実に41倍差でした。戦力では戦艦等の主力艦はロシアの方が多く、日本がぼろ負けしていた可能性の方が高かったのです。しかしパーフェクトと言える世界史史上まれにみるほどの日本側の大勝利でした。強国ロシアのバルチック艦隊に対して弱小の日本が圧倒的な勝ち方をしたことで、世界中が驚きました。

福岡県福津市 東郷神社へ

日露戦争の英雄「東郷平八郎」が祀られている東郷神社です。一応東郷神社は、東京都渋谷区、埼玉県飯能市と今回行ってきた福岡県福津市の3か所あるようです。日本海海戦で大勝利を挙げた英雄です。絶対にありえない作戦を立て、見事に成功させました。世界史史上まれにみる大勝利でした。そんなすごい東郷さんですが、いい気にならずに、「勝って兜の緒を締めよ」って皆を戒めたんです。すごいですねえ・・・私だったら天狗になりますけどね。

場所は福岡県福津市の大峰山自然公園にあります。この日は天気が良く、海もきれいで山道も最高です。

「世界最強と言われたロシアバルチック艦隊を海戦史史上例のない戦法で完勝し我が国を守りました。」とあります。

さすがに絵馬には、全国大会に行きたいとか、勝負事に関するお願いが結構ありますね。

旗艦三笠の主砲の先端部分だそうです。まだ大砲は保存していたそうなのですが、終戦後兵器処理委員会によって、八幡製鉄所の溶鉱炉に投入されたそうです。せめてこの先端だけでもと懇願して残してもらったとか・・・。

一応東郷神社ぐるっと回ってお賽銭入れて参拝して、次は少し歩いて山の上へ行きます。

三笠っぽいモニュメントでしょうか・・・本物の三笠は神奈川県の横須賀で一般公開されています。

この海が対馬海峡です。左手が南です。左手から1905年5月27日ロシアのバルチック艦隊は北上してきました。

↑写真真ん中下のポッチが現在地です。まっすぐ上を見ると薄っすら見える島が大島です。実際の戦闘海域はそのさらにずーっと先になります。ここからだと多分当時も目視確認はできてないかな・・・ちょっと遠すぎますね。ここから大島までが10㎞程度、最初の戦闘海域まで多分70~100㎞位ありそうです。たぶん水平線の下側だな・・・

↑どこでどの艦が沈没したのか、すべて書いています。

日本海海戦記念碑とあります。

東郷さんです。世界中の軍人さんに尊敬されており、彼の取ったT字戦法はいまだに軍関連の教書に載っており、研究されています。

神社の社務所にはお守り等、いろいろ販売しています。

むむ!キティちゃんのお守りまで・・・しかもよく見ると手に持ってる手旗は赤白ではなく、なんとZ旗・・・すごいこだわり・・・

(参考:ウィキペディア、面白いほどよくわかる日露戦争)

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