日露戦争開戦1904年(明治37)、旅順口攻撃、ニコライ2世、調べてみた

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日露戦争について

少し前までちょんまげを結っていて、弱小国だった日本がイギリスに次ぐ世界の超大国相手にケンカを吹っ掛けます。小学生が高校生に向かっていくようなものです。もちろんしたくてしているのでは、ありません。戦争自体は日本が辛勝した形ですが、もう両軍ボロボロですさまじい被害が出ています。「ふん!日本ごとき・・・」と高を括っていたロシアが、だんだんやばいと思い始めると同時に、ロシア革命が起こり戦争継続が難しくなってきて、講和条約に応じました。もしロシア革命がうまく抑えられていたら、どうなっていたことか・・・日本は弾もつきかけ、ぎりぎりの戦いでした。

戦死者:日本は8.4万人~11.6万人、ロシアは3.4万人~5.3万人

(出典:アジア歴史資料センター)
  • 1904年2月6日 佐世保から連合艦隊出撃。
  • 1904年2月9日 仁川沖海戦
  • 1904年2~3月 旅順口閉塞作戦
  • 1904年5月1日 鴨緑江会戦
  • 1904年8月10日 黄海海戦
  • 1904年8月14日 蔚山沖海戦
  • 1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
  • 1904年8月30日 遼陽会戦
  • 1904年10月9日 沙河会戦
  • 1904年10月15日 バルチック艦隊出港
  • 1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
  • 1904年12月5日 旅順口203高地占領
  • 1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
  • 1905年1月2日  旅順開城
  • 1905年1月22日 ロシア血の日曜日事件
  • 1905年1月25日 黒溝台会戦
  • 1905年3月1日 奉天会戦
  • 1905年5月27日 日本海海戦
  • 1905年6月   第一次ロシア革命
  • 1905年6月14日 戦艦ポチョムキンの反乱
  • 1905年7月31日 日本軍樺太占領
  • 1905年9月5日 ポーツマス日露講和条約調印

ニコライ2世(ロシア帝国ロマノフ朝)

(出典:ウィキペディア)

1年7か月に及ぶ大変な戦いが日露で行われました。始まる前は格下の日本を軽く見てロシアは強気でいました。皇帝ニコライ2世(1868~1918)も初めは強気で、「日本ごとき」と高を括っていて(三国干渉で弱気を見せた日本の記憶もあり)、皇太子時代日本歴訪中日本の警官に斬り付けられた大津事件の記憶もあり、日本に対して複雑な気持ちもある(大津事件が日露戦争の遠因とも言われる)。でも開戦間際になると譲歩してもいいような感じで弱気になっていたりと、揺れ動いています。どうしようもない時代の流れもあり、不幸にも開戦へと進んでいきます。強気になったり、弱気になったり、いい気になって、高を括って、読み間違えて・・・皇帝と言えどもごくごく普通の人間です。「まさか日本が・・・」です。戦況も芳しくなく、皇帝と言えども冷や冷やものでした。

ロシア国内では???明石元二郎暗躍!!!

ロシアの駐在武官明石元二郎の諜報活動によりロシアの反政府活動が活発化され、それによりロシア軍は極東へ兵を送りづらい状況になった。(明石の活躍は10個師団に相当すると評された)彼が持たされた工作資金は現在のお金で400億円以上と言われ、そのお金で第一次ロシア革命が起こったとも言われるほど。

1905年1月あの鉄壁の防御を誇っていた旅順が乃木大将率いる第三軍に破られ、ロシア軍は驚愕する。ちょうどこのころロシア国内において、デモやストライキが頻発する(明石元二郎の影が至る所にあった)。専制国家打倒、労働条件の改善、国民議会開催、戦争中止などを求め民衆が蜂起し暴動となった。それに対し軍が発砲したのが「血の日曜日事件」である。1000人以上の犠牲。この犠牲でニコライ2世に対する民衆の大きな失望へとつながる。1905年3月奉天会戦でロシア大敗。1905年5月ロシアバルチック艦隊壊滅、1905年6月戦艦ポチョムキンの反乱、各地で民衆暴動(第一次ロシア革命)が起こり、もう戦争の継続は無理と判断し、ポーツマス講和会議へとつながる。孫子の兵法にもあるように、国民の思いも一つにまとまってなければ、戦争の継続も難しくなるのでしょう。

ニコライ2世その後

日露戦争とは関係ありませんが、時代の流れもあり、デモやストライキ等、革命への流れはくすぶり続けます。1914年に第一次世界大戦が起こり、長く苦しい生活に国民の不満は高まっていく。そして1917年にロシア革命が起こり、ニコライ2世のロマノフ朝は崩壊します。ニコライ2世とその家族、専属の医師、使用人は、ウラル地方のイパチェフ館に監禁され、その地下で1918年、医師使用人も含め(一家7名+使用人等4名)全員射殺されました。ロシア国民は、自由を求めて、より良い生活を求めて必死で戦い、革命を起こしました。レーニンの時代を経て、あのスターリンを誕生させることになるのですから、歴史というのは非情なものです。

(出典:ウィキペディア)

初戦1904年2月、連合艦隊佐世保から出撃

いまかいまかと世界中が注目していた。1904年2月6日東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が佐世保から出撃した。1904年2月8日旅順にて日本海軍による奇襲攻撃から始まる。同日日本陸軍先遣部隊が仁川に上陸。翌日には仁川沖海戦が起こる。清国はすぐさま中立を宣言。韓国は2週間前に中立を宣言、2/23には日韓議定書の締結。韓国側に日本軍の通行を認めさせる代わりに、韓国の独立、領土保障するもの。

旅順口攻撃を行う。ロシア旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)は湾内に留まり、日本側の誘い出しには乗らなかった。その攻撃の中に閉塞作戦というのがあった。

旅順口閉塞作戦とは!!!

(出典:グーグルマップ)

1904年2~3月に行われた作戦。写真を見ると分かるように軍港というのは入り口が大変狭くなっています。両側を大砲で固めてしまえば、敵は入ってこれないわけです。入ってきたとしても軍艦による一斉射撃で避けようがない状態になります。ですからこういった入り口の狭い湾状の軍港が多いわけです。佐世保もそうですね。いったん中に隠れられると手を出すのが非常に難しくなるわけです。この旅順は入り口が273ⅿと非常に狭くなっています。そこに大型の商船等を沈めてしまえば、もう中の軍艦は出てこれないわけで、役に立たない状態になります。封鎖を解けば、再び湾の外へ出てきて、日本の船に被害が出るので、封鎖を解くわけにもいかない。中へ隠れているロシア旅順艦隊は、ヨーロッパから送られてくる最強のバルチック艦隊と一緒に日本の連合艦隊をやっつけることが目的で湾内にただ隠れて待っているわけです。日本側としては、ヨーロッパにいるバルチック艦隊がやってくるまでに、何としてもこの旅順艦隊を叩いておく必要があるわけです。

旅順口攻撃で何度も砲撃や魚雷等で攻撃するも、決定的な被害を与えることが出来ずにいた。そこで危険を承知で3度の旅順口閉塞作戦を実施することにしたわけです。何隻もの商船、旧艦艇などを準備し、夜、サーチライトを避けて近づきます。結果三度とも失敗。合計21隻もの商船は次々と砲撃で沈められ、湾入り口に近づくことができませんでした。

第二次攻撃で亡くなった広瀬武夫少佐(のち中佐)は、大分県竹田市出身。ロシアに留学していてロシア語に堪能、ロシアの駐在武官になる。第二次閉塞作戦では、部下を捜すため、沈みゆく船の中へ戻っていき、再びボートへ戻る際に攻撃をうけ死亡した。広瀬少佐の死体はロシア軍が丁重に埋葬した。「広瀬中佐」という歌も作られた。「杉野はいずこ~、杉野はいずや~」という歌詞がある。仲のいい部下だったという。

(出典:アジア写真帳)

(出典:アジア歴史資料センター、ウィキペディア、世界史の窓、他)

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