日清戦争って???調べてみた

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日清戦争って???


1894~1895年、日本と清国の間で起こった戦争。原因は朝鮮半島で起こった東学党の乱。重税に怒った農民たちに手を焼いた李氏朝鮮政府は清国へ応援要請。天津条約に基づき日本も派兵した。呼ばれてもいない日本も、自分らの権益を守るために軍を出したというところ。ソウル周辺で日清両軍がにらみ合う。これはまずいと思った朝鮮政府は東学党側と話をつけ、争いを収めた。反乱は収まったので、両軍出て行ってくれませんか?と言っても、にらみ合ったままという流れ。自分らの影響力を朝鮮に保ちたい不良どうしのケンカです。こうなることは分かっているのだから、朝鮮政府が主導して、この地域は清国お願い、この地域は日本にお願いと言って、上手くこの両国を使って反乱を抑えてもらえば良かったと思います。あまり無理言うと相手側に付くからなと脅せば、いいのに・・・。この戦争で日清両軍だけでなく、戦場になった朝鮮の人たちにも多大な犠牲が出ています。朝鮮政府が悪いとは言いませんが、うまく立ち回り危機を回避し、ぎりぎりの所で国を守ろうとする政治家もいたはずです。従属的な意識ではなく、きちんとした一つの独立国であるという立場を明確にし、このいがみ合っている両国をうまく利用してやるんだというぐらいの視点で考えることが出来れば、無用な争いは避けられたかもしれません。しかしこの頃の朝鮮は、親清国派と親日派に分かれており、大きな立場から考えられる政治状況でなかったことも、朝鮮半島を戦場にしてしまった一因と思われます。

修学旅行中、出来すぎ君が言った。「剛田君(ジャイアン)、あっちには悪そうな連中がたむろっているから、こっちの道、行こうよ!」「なにー、俺が負けるっていうのか!」「違うよ、剛田君(ジャイアン)、せっかくの修学旅行なんだし、もめごと起こさなくても・・・」「それも、そうだな・・・」どちらの道を行っても争いが起こるときは起こると思います。でもほんのちょっと、主導権を取って、上手く誘導でき、諫めることが出来る出来すぎ君のような人がいれば、争う確率はグンと減少するものです。状況が緊迫すればするほど、政治家には正確で的確な判断が求められます。のびたやスネ夫は独立してなさすぎ、たぶん諫めることは出来なかったでしょう。出来すぎ君だからこその役割でしょう。

1894/6/5    日本、大本営設置
1894/7/25   豊島沖海戦
1894/7/29   成歓の戦い
1894/9月  平壌の戦い
1894/9/17   黄海海戦
1895/1月2月 威海衛の戦い
1895/3月4月  下関講和会議

(出典:heiwa.yomitan.jp)

戦い自体の戦死者は日本は圧倒的に少ないのですが、疫病などにかかり、多くの日本兵が死んでいます。防疫面を考慮しなかったことが原因です。進軍を優先させ、食料等の兵站を軽くみたことが、戦闘以外での死者を増やしました。

1894年1月 東学党の乱

朝鮮半島で起きた農民の反乱。重税に苦しんだ農民が蜂起した。李氏朝鮮政府は清国へ助けを求める。清国は兵を送るが、天津条約に基づき、日本側も派兵。ソウル周辺で日清双方にらみ合う。東学党の乱が収まっても、日清両軍一歩も引かず。

1894年7月25日 豊島沖海戦(日清戦争開戦)

朝鮮半島の豊島沖で日本艦隊と清国の艦隊が交戦。日本側圧勝であるが、少し厄介な事件が起こる。高陞号事件である。この高陞号というのは英国の船でまさに清兵1100人を輸送中であった。「浪速」艦長東郷平八郎がこの高陞号を停船させ、臨検を行い、拿捕しようとした。英国人船長と船員は3名であとは清国兵士だった。数時間に及ぶ交渉が決裂し、撃沈したという事件。英国ともめたくはないので、英国人船長と船員に「船は捨てよ」と信号を何度も送ったのだが、当然清国兵士は逃がしてなるものかと必死。仕方がないので撃沈したのだが、すぐに海に飛び込んだ3人の英国人船長と船員は、「浪速」に救助された。命が助かったから良かったが、しかし英国では反日世論が渦巻く。しかし英国政府の見解は日本寄りで、国際法の権威によって、日本側に非がないことが示され、反日世論は沈静化していった。下手をすれば英国を敵に回す寸前だったが、「浪速」艦長の東郷平八郎は国際法を熟知しており、ぎりぎりの判断を下したのだった。

1894年7月 成歓の戦い(牙山、成歓陸戦)

(出典:ウィキペディア)

日本4000名、清国3500名が成歓付近にて交戦。日本側死傷者88名に対し、清国側死傷者500名。清国軍は武器等を放棄し平壌まで撤退。日本側圧勝。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を担ぎ出し、新政権樹立させた。

1894年9月15日 平壌の戦い(陸戦)

日本陸軍10000人、清国陸軍14000人。日本側死傷者686名、清国側死傷者6000名。清国軍は白旗をあげて、退却。日本側は、食料不足に悩まされていたものの、この平壌で清国軍の残していった食料で解消された。進軍を優先させたため、兵站を軽視していた。勝ってはいるが、日本側の反省点である。

1894年9月17日 黄海海戦

日本側巡洋艦等10、清国側戦艦、巡洋艦等12。日本側損害4隻大破、死傷者298名。清国側損害5隻沈没大破、死傷者850名。日本の連合艦隊は旗艦「吉野」を先頭に単縦陣。丁汝昌(ていじょしょう)提督率いる清国北洋艦隊は横列陣にて迎え撃つ。近代的な軍艦が投入された最初の戦いで世界が注目した。この戦いで清国海軍は大損害を受け、制海権を失う。清国北洋艦隊は旅順港へ逃げ帰る。

(出典:先人の足跡と辿る)

1895年1月2月 威海衛の戦い

黄海海戦を経て残った北洋艦隊は旅順港へ逃げたが、旅順も日本陸軍により包囲され、威海衛へさらに移動させた。その威海衛湾も日本軍に包囲された。その湾内には北洋艦隊14隻がいた。日本陸軍が陸側から砲撃するも、北洋艦隊の艦砲射撃の方が威力が大きい。仕方がないので、連合艦隊は夜襲で湾内へ突入することを決めた。1895年2月5日AM3時20分、水雷艇部隊を湾内へ侵入させ、魚雷にて北洋艦隊旗艦「定遠」「来遠」「威遠」3隻を大破撃沈させた。後日の襲撃で「靖遠」を撃沈。李鴻章から北洋艦隊を任されていた 丁汝昌(ていじょしょう)提督 は、清軍の降伏と将兵の解放を求めた請降書を残し、自決した。 この丁汝昌提督の遺体は、日本海軍の敬礼の列に見送られながら、助命された清国の兵士とともに港を離れた。旗艦「松島」からは弔砲が放たれ、伊藤司令長官は最敬礼で見送った。

(丁汝昌)
(出典:ウィキペディア)

この後、1895年3月4月に日清講和会議が下関で行われ、下関条約が締結。この条約で台湾割譲が決まり、台湾へ上陸してきた日本軍に対し、清国の残存兵や台湾の住民が約5か月にわたり抵抗した。

(参照:ウィキペディア、世界史の窓、アジア歴史資料センター、他)

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