アヘン戦争(1840年)って何???調べてみた

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昔、中学生だったころ、アヘン戦争について歴史で学んだ時に感じたことは、「?」「えっ?」「なに?」である。アヘンって・・・麻薬ですよね。中毒性の高い・・・紳士の国が???清国に麻薬を売りつける???先生の話がもう理解できなくて、思考停止になった記憶があります。歴史の授業がいきなり暴力団の抗争事件の話になったのかと思いました。今は十分大人になったつもりですが、人間は汚い生き物であると十分理解しているつもりですが、それでも、やっぱりこのあたりの所をきちんと調べないといけないと思い、今回はアヘン戦争についての記事にしてみました。時代の流れだと分かってはいますが、この世で一番怖いのは人間です。まちがいありません。当時イギリスは自由貿易を求めて、中国側と交渉しますが、一向に良い返事がもらえないことに苛立っていました。これら一連の流れ全て、イギリスの思惑と言うことも出来ます。弱肉強食のこの時代、ちょっとでも隙を見せれば、少しでもきっかけを与えれば、食い荒らしに来ます。

始めは普通に貿易していた

そう、初めは英国と清国は普通に貿易していたんです。でも中国には「世界の中心に中国がある」という考え方があって、朝貢(ちょうこう)という制度の中にイギリスを加えたという見方をしていました。朝貢というのは、中国の周辺国(タイ、ベトナム、台湾、琉球、等)が貢物をして、朝廷が恩賜を与えるという形式をとる。中国だけでなく、ローマ帝国や日本だと江戸幕府も似たようなことをしていました。ただ、上から目線と言うだけでなく、これは形式的にでも周辺国と仲良くしていれば、安全保障にとっても良いとされていた面もある。

このとき1750年代~1840年代、イギリスと清国との貿易は、上手くいってなかった。イギリスは清国から多くの絹、陶磁器、茶などを輸入した。お茶文化のあるイギリスで、清国のお茶の人気が出たんですね。一方的に輸入してイギリスからは多くの銀が清国へ流れるわけです。さらには、公行という国に委託された貿易商が一手にイギリスとの貿易を行っていたため、イギリスは彼らの言い値で買わざるを得ませんでした。もっと自由化してほしいと何度も要請しましたが、朝廷側の態度はあくまでかたくなで、イギリスが貿易したいというから、してあげているだけで、特に中国が必要としているものはないと、突っぱねていました。産業革命で成功しているイギリスの綿製品も、清国では売り上げが伸びない。このままでは貿易赤字が膨らむばかり。そこで目を付けたのが、インドのアヘン。イギリスの東インド会社を通じて大量のアヘンが清国へ持ち込まれます。

(出典:日本史辞典)

このときインドは英国の植民地です。英国は自慢の綿製品をインドに買わせ、インドで作らせたアヘンを清国へ売り、清国の絹、陶磁器、お茶が英国へ売られるという、悪魔のサイクル(三角貿易)を作り上げたのです。

取り締まり強化、林則徐派遣

(出典:ウィキペディア:林則徐)

1800年代初め、急速に中国でのアヘン密貿易が増大。ほとんどがイギリス東インド会社のものだが、のちに莫大な利益に目がくらんだフランス、アメリカも加わった。中国ではアヘンによる中毒患者が増え、多くの廃人を生み出します。取り締まるべき役人も手を染めていて、莫大な賄賂攻勢も行われました。これ以上の拡大を防ぐため、時の皇帝、道光帝は取り締まり強化の為に、1839年、林則徐を広州へ派遣。林則徐は様々な賄賂工作をものともせず、アヘン中毒者や密貿易関係者を摘発。イギリス商人からアヘンを没収。同時に外国の情報を収集し、広州沿岸に大砲、戦闘艦を配置し兵を雇い、防備を固めた。しかし1840年8月イギリス艦隊が到着すると、防備の堅い広州を避けて天津にまで北上し上陸した。驚いた清国政府は、開戦の責任を林則徐に押しつけ解任しました。当時イギリス議会もアヘン買わせる為に戦争を仕掛けることに対してものすごく抵抗があったのですが、莫大な利益の前に、結局は軍艦を派遣することになりました。それを予期して広州の防備を固めた林則徐はすごい方ですが、そこを避けて北京へ一気に北上した英国はその上をいきますね。北京政府が林則徐をこのとき解任しなければ、歴史は変わっていたという議論があります。それだけ国のことを考えて行動できたすごい政治家でした。

開戦!!1840~1842年

交渉もうまく行かず、イギリスの思惑にまんまとハマった清国は戦争に突入していきます。しかし戦力差は歴然です。世界の頂点と言うべきイギリスとやり合って勝てるわけありません。イギリス海軍は命中精度も高く、射程が長く、威力の大きい最新式の大砲で、清国のジャンク船を次々と撃破し、北上していきました。

(出典:ウィキペディア)

兵士

  • イギリス 19000人
  • 清国   200000人

死傷者数

  • イギリス死傷者 500人
  • 清国死傷者  19000人

もう少し小さい戦争なのかと思ってましたが、かなりの被害が出ています。清国死傷者19000人です。大義は清国にあります。国を守るため、家族を守るため、戦いました。死んでいった兵士に対しては敬意を表したいと思いますが、国のトップはもっとしっかり考えてほしかった。上から目線の朝貢では、相手の気持ちも見えないでしょう。また自分の所の国力や軍事力など、相手との相対的な比較をもとに、外交を粘り強く行う必要があったと思われます。

南京条約1842年

  • 公行の廃止
  • 賠償金2100万ドル
  • 香港島割譲
  • 5港開港(広州、福州、あ門、寧波、上海)

もうすごいです。アヘンは当然買わせ続けます。貿易の邪魔だった公行を廃止させ、賠償金を支払わせ、香港を取ります。貿易拡大を狙って5港開港させました。麻薬で国をボロボロにされ、それを取り締まったら、戦争吹っ掛けられ、ボロボロにされて賠償金、香港取られて、港をこじ開けられ、アヘンを買わされます。中学のころにも不良と言うのはいましたが、正直ここまでの不良は見たことがありません。ただ実はまだ続きがあります。もっと利益のほしい英国はこの14年後、アロー戦争を仕掛けます。それはまた後日・・・

(参考:ウィキペディア、世界史の窓、トライ、)

あとがき

でも中学生の頃の歴史の先生の授業の面白かったことは未だに忘れない。黒板に一杯書いてましたが、話すときは生徒の方を向いて、本当に面白おかしく、ドラマチックに分かりやすく説明してくれました。今、歴史系ユーチューバー色々いますが、今あの先生がいたら間違いなくトップになれると思います。それだけ面白かった。

でもまだ、信じられません。こんな戦争があるなんて。麻薬買えっていう戦争・・・そんな馬鹿な・・・いまだに信じられないのですから、純粋だった中学生のころ理解できるわけありません。時代だからって言うけれど、当時と一体何が違うのか・・・同じ人間です。今と同じ風景(都会は別にして)で暮らし、隣人と他愛もない話で盛り上がり、飯食って風呂入って歯を磨いて寝る。何が違うんだろう。違いと言えば、スマホとコンビニがあるくらいか・・・奴隷貿易はもっと信じられませんが・・・資源や領土よこせっていう戦争がまともに見えてくるほどです。

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