先日李鴻章道を歩いてみた。
日清戦争での講和条約である下関条約が調印されたのは、山口県下関市の春帆楼という料亭です。1895年3月~4月の約一か月間、その春帆楼で清国の全権:李鴻章と、日本側の全権:伊藤博文総理と陸奥宗光外務大臣が会談を行いました。その一か月間李鴻章とその一行は、歩いて5分ほどの所にある引接寺で宿泊していました。その時に通った道が李鴻章道と言われています。春帆楼を出てその細い道を歩いていきます。約125年前、彼は何を思いながらこの道を歩いたのでしょうか。今は舗装されていますが、125年前はただの土手沿いの細い道だったでしょう。すぐそばには関門海峡が見え、のどかな風景がひろがります。
春帆楼の横には、赤間神宮があり、ここは日本側全権の宿泊施設となっていました。竜宮城のような外観で観光に来ていたのなら、さぞかし喜んだでしょうが、今まさに戦っている兵士のことを考えれば、とてもそんな気分にはなれないでしょう。
約一か月間ですが、会議は全部で7回。実は第三回会議(1895年3月24日)終了後の帰り道(大通り)で李鴻章が小山豊太郎という青年に狙撃されました。陸軍軍医総監による治療のかいもあり、回復。明治天皇や多くの日本人から見舞いが寄せられました。4月10日の第5回会議には李鴻章も復帰しました。さすがに大通りは危ないということで、山沿いの小道を通ったことから、李鴻章道と言われるようになりました。
引接寺や、春帆楼などの建物自体はもう新しくなっていますが、ゆっくり風景を楽しみながら、125年前に李鴻章さんが歩いた道を通って、日清双方の政治家がぶつかり合った場所で、そう遠くない過去に思いをはせてみるのもいいかもしれません。
日清講和会議について、下関条約
1894年7月から1895年4月(約9か月間)にかけて、日本と清国の間で戦争があった。日本、清国ともに朝鮮半島の権益を取るため、朝鮮半島の覇権をかけて争った。戦争は陸上戦、海上戦ともに日本の圧勝であった。1895年3月19日清国全権李鴻章が下関に到着。
3月20日春帆楼にて第一回講和会議。清側は休戦を求める。日本側は勝っているので、やめる必要性はないので、休戦したいならと厳しい条件を付ける。その間にも戦闘は、日本側優位で進んでいく。刻一刻その情報は、両全権のもとへ届けられる。あまりにも厳しい日本側の要求に、李鴻章はやむなく休戦をあきらめる。第三回会議のあと、宿舎へ引き上げる李鴻章が、小山豊太郎に狙撃される。左目下を撃たれる重症。日本政府はすぐに陸軍軍医総監を派遣し治療にあたらせる。命に別状はないものの、講和会議を中止し清国へ帰るのではないかと恐れた日本側は、休戦を無条件で受け入れた。日本が恐れたのは、国際世論が撃たれた李鴻章に同情し、第三国が介入するのではないかと、警戒したためだった。李鴻章側も国際世論をうまく利用できる可能性もわからず、列強の清国へのさらなる介入も避けたい事情もあった。どちらにしろ、小山豊太郎は上手く交渉を進めていた日本側の足を大きく引っ張ったことに違いなかった。小山は戦争継続を支持する政治活動家、もしくはテロリストとされる。事件後すぐに取り押さえられた。4月10日の会議から李鴻章が復帰。4月17日に日清講和条約(下関条約)が締結された。
清国の主な条件
★朝鮮の独立を認める
★遼東半島、台湾の割与
★賠償金2億テール支払う
日本側の完全勝利でした。しかしこの裏では、李鴻章と清国との電信暗号文を解読したり、李鴻章も日本側の出した厳しすぎる条件を、都合の悪いところは言わずに各国大使に流したりと、水面下の争いも相当なものでした。
2億テールというのは、当時の日本の国家予算の3倍と言われる。莫大な賠償額で清国は疲弊し、日本はこのお金で近代国家へ大きく前進した。
三国干渉
日清戦争は日本の圧勝という形で終わりました。朝鮮の権益を巡った清との争いに日本が勝ったのです。当時日本は、弱小国で欧米列強のアジア進出に恐れを抱いており、日本自身が強くならなければと富国強兵を推し進めてきました。南下してくるロシアの脅威もあり、どうしても朝鮮がほしかった。大国清国を打ち破り、朝鮮半島の北西に位置する遼東半島を得て喜んでいたのも束の間、わずか6日後にロシア、ドイツ、フランスが遼東半島は清国へ返すべきと言ってきました。ロシアは艦隊まで派遣して日本を威嚇した。この言い合いに英米にけん制してもらおうとしたが、英米は中立の立場を取った。日本は渋々遼東半島を返さざるを得なかった。伊藤博文も陸奥宗光も遼東半島を取れば、ロシアが干渉してくると読んでいたが、さすがに列強国ドイツ、フランスまで連れてくるとは、読み切れなかった。しかし戦後すぐにこれら列強に逆らえるほどの力は日本には無かった。この悔しさを「臥薪嘗胆」というスローガンで表した。「復讐を成功するために苦労に耐える」という中国の故事成語。せっかく手に入れた遼東半島をロシアに奪われたのである。この三国干渉がこの10年後の日露戦争に結び付いたといえる。実際に1898年にロシアは遼東半島南端旅順、大連を清国から租借しているのである。取って取られてを繰り返された。このころの列強国というのは、もう腹の読みあいである。時代の流れというか、弱肉強食そのものであった。三国は清国に味方するような立場を取りながら、いかに清国の分割統治をするか考えていたのだから・・・
清国は弱小日本に負けて、大したことないと思われ、三国干渉から列強が本格的に清国の分割統治に乗り出した。このころの清国の勢力図を見ると悲惨としか思えず。もちろん清国の衰退にも繋がり、当然国民の不満は高まり、義和団事件へとつながっていく。日本は清国からの賠償金をもとに軍拡を進めていき、ロシアとの戦争へ向かう。
このころの清国の人は、今の中国を想像出来たでしょか?経済ではアメリカに次ぐ世界第二位に位置し、軍事面でもアメリカと互角に威嚇しあう。スリランカに莫大な資金を貸し付け、返せないとみるとその国の港を99年間租借地とした今の中国を見ると、歴史って本当に繰り返すものだと感心します。債務の罠と言われる。各国警戒しています。しかし資金繰りに困った国にとってはのどから手が出るほどの誘惑です。
(出典:ウィキペディア、NHK、ジェトロアジア経済研究所、他)