桶狭間の戦いとは!調べてみたぞ!今川義元顔色悪いけど強いのか!の巻!

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1560年、尾張の桶狭間にて織田信長3000と今川義元25000との戦い。およそ兵力8倍。信長が今川本体へ攻撃を仕掛け、大将今川義元を討ち取った。どういった流れだったのか見ていきたいと思います。

信長のお父さんが亡くなって、信長が継いだ尾張を狙おうと、駿河の大大名今川義元が兵を進めます。今川からすれば尾張の織田など「赤子の手をひねるようなもの」なのです。奇襲と言われていますが、何をどうすれば勝つことができるのか?さすがに8倍以上の相手にどうやって勝てたのか???この時織田信長27歳、今川義元41歳である。いくら油断していたとはいえ、今川義元・・・むむむ・・・無念・・・なのでしょう。最後首を切られるときに頭を押さえてる人の指を食いちぎったとか・・・往生際が悪いという人もいますが、私は最後まで戦う姿勢を崩さなかったという意味で、あっぱれをあげたいと思います。

(出典:歴史上の人物.com)

↑今川義元のおおよそのイメージです。顔色悪い、お歯黒のというやつです。1550年代今川義元の所領は駿河、遠江、三河、尾張の一部にまで及ぶ大大名。海道一の弓取りと言われた。尾張の信長などは取るに足らない存在として見ている。領土の大きさが強さとは言えませんが、このころの勢力図は以下のようになっています。上杉、武田、北条、今川と名だたる大名がいる中で織田家の小さいこと。当然戦国時代ですので各々至る所で戦が繰り広げられるわけですが、1554年に武田の仲介で今川、北条、武田の3者で甲相駿三国同盟という和平協定が結ばれます。そのおかげで武田は上杉との戦いに集中でき、今川は西へ勢力を広げることができるわけです。右を気にしながら左の敵とは全力で戦えませんからね。以前より今川と織田は三河、尾張一部をめぐって攻防があったのですが、やはり一番有名なのはこの桶狭間の戦いでしょう。以下の図で分かるようにこの時はまだ徳川は今川の配下でした。

(出典:ゆるりと楽しく戦国時代)

尾張の東の端に鳴海城と大高城があり、そこが今川に取られていて、尾張に食い込んでくる今川を追い出そうとそれらの城を囲むようにいくつもの砦を構えています。今川は家康に囲まれている大高城に兵糧を運び、周辺の織田の砦を落とすように言われます。1560年5月18日、徳川家康(このときは松平元康)は大高城に兵糧を運び込みに成功。まだこの時織田信長は、今川の大群が尾張に攻めてきているにも関わらず、清州城にてまともな軍議もせず、のほほんとしていたとか。恐らく腹の中では煮えくり返ってるでしょうが・・・ただ信長は大変な戦略家です。随時内通者から今川方の情報は得ていました。

1560年5月19日、今川方が織田方の砦に攻め込みます。砦と言われるくらいですのでそこにいる兵は200~500名程度。抵抗するも、次々と今川の大群の前に砦が落とされていきます。今川が砦を攻撃し始めたとの知らせを聞いた信長は、表面上のほほんとしていた振り?が一転、「敦盛」の舞いを踊ります。「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」ドラマなどで一度は見たことあるのでは・・・信長、本気モード発動です。

十名程度の兵を率いて清州城を飛び出します。それまでののほほんとしていた感じが嘘のようです。熱田神宮に着くころにはどんどん兵が合流し、3000人に膨らんでいました。しかし今川の25000にはとても敵いません。恐らくいきなり今川本隊へ切り込むことを考えていたと思われます。しかしギリギリまで情報流出を防ぐため、信長は誰にも言いませんでした。信長は、今川方の情報を得ると同時に、自分の情報も相手方に探られていると考えていたのでしょう。数百いない砦の者たちは皆、信長出陣の報を聞いて奮い立ちます。

(出典:中日新聞)

信長は鳴海城の東に位置している善照寺砦に入り、2000の軍勢を自ら率いて桶狭間を回り込むように、豪雨の中進んでいきます。今川方は織田方の砦をいくつか落とし始めておりその報告を聞いて油断しています。今川本隊5000は前線から少し離れた桶狭間山で有利な戦況を聞きながら、休憩していました。そこへ一気に背後から織田信長率いる2000が切り込んできたわけです。何度目かの攻防のあと、今川義元は神輿から降り、数百の旗本に守られながら逃げていきます。それでも織田軍は今川義元の首のみを狙い、執拗に攻撃を続けます。今川義元を守る旗本がどんどんやられていき、最後には捕らえられて首をはねられます。それで今川軍は総崩れ。織田軍の大勝利となるわけです。

最新の研究では奇襲ではないとされる説も支持されているようです。中島砦に入り、そこから今川の先鋒隊と交戦しそれを撃破して、今川本隊に切り込んでいったという説です。物語としては奇襲の方が面白いですが、実際はどうなんでしょうか。今川本隊が先発隊と交戦している織田軍をみて、その場にとどまり傍観してたのか?と思うと奇襲の方を信じたいですけど・・・まあその辺は学者にお任せしましょう。

この後、今川方は駿河へ逃げ帰るのですが、松平元康(徳川家康)はどうしたかと言うと、織田信長と手を組み今川の支配から抜け出し、三河を今川から奪い返す形となります。この戦いで信長は名をあげ、家康と手を組むみ天下取りへと進んでいきます。敗れた今川は滅亡へと進みます。

ただ、今川の家督を継いだ氏真(うじざね)が戦い方が下手だったようです。再び盛り上げるだけの力が無かった。それを感じた武田信玄は今川、北条、武田で結んでいた3国同盟を破棄して徳川と武田で今川の領土仲良く分け合おうぜ!ってなります。1568年徳川武田の密約。弱いと思ったら同盟組んでても寄ってたかってです。

あとがき

現在行われているロシアとウクライナの戦争でもわかりますが、相手が弱い、自分より下とみれば食って掛かります。一週間で取れると思ってしまった。個人だってそう。自分より格上か格下か・・・もう修学旅行の中学生が地元の不良と橋の上でバチバチと。。。女性だってあるんですよ。ブランド物を身に着けて、街ですれ違う若い女性同士が一瞬で自分のが上よ!とか、私のがイケてるわ!とか・・・たぶんアレです。その延長がプーチンであり、家康であり、信長なんです。今、街で一瞬私のがイケてるわって思った方、おめでとうございます、きっとあなたは前世信長です。

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