徳川の時代ですよ。時代はもう徳川!戦国の世も終わり、これから長い平和で穏やかな時代が続くというときに、起きたんですね。一揆が。キリシタンで16歳の美少年天草四郎が立ち上がり悪代官に正義の鉄槌を下したわけです。下のお方が天草四郎どのです。16歳美少年です。ネットにはいろいろ似顔絵が出ていますがすべてイメージ画、想像で後の人が書いたものです。
豊臣時代から禁教令(キリスト教はダメね)はあったのですが、まあ一応あったという程度で、それほど厳しい取り締まりは行ってなかったんです。だからキリシタン大名もいたし、全国津々浦々キリシタンがいたわけです。しかし世は変わり、徳川の時代になってキリスト教に対する取り締まりが厳しくなっていきます。恐らく徳川家康が若い頃地元三河で起こされた一向一揆が原因で宗教に対して厳しくなったとか。。。要は自分を殿として領主として敬ってもらわないといけないのに、神とか仏さまを立てられて一揆とか起こされて、自分の政権の基盤が崩されるのが怖いわけです。命がけで作った徳川政権を何としても守らなくては!!という感じですね。他にもスペイン、ポルトガルの侵攻を防ぐという考えもあったようです。家康の死後もキリスト教に対する取り締まりは厳しくなります。
1616 松倉重政が大名として島原へ赴任してくる。そのあと松倉勝家が後をつぐ。
この2人が最悪で、4万石しかない土地を10万石あると幕府に過大に報告し、重税を課して民百姓を苦しめます。さらに財政苦しいのに島原城という大きな城を築城します。餓死者が出てもお構いなし。税が払えない者にはみのを背負わし、火をつけ「みの踊り」の刑。ありとあらゆるものから税を取り、払えなければ処刑したり。もう非道の限りをつくします。
当然幕府もなんか、やり過ぎなんじゃないかと思うのですが、そこで松倉重政は疑われてはいけないと思い、幕府にこれはやつらがキリシタンだから厳しく取り締まってるだけですと、キリスト教のせいにするのです。すると幕府はああ、そうか。。。じゃあしょうがないねとなるわけです。最初松倉重政はそれほどキリスト教の取締りには興味なかったのですが、この理由は使えると思い、自分の城をつくる為、重税を課して、幕府にも説明がつくこのキリスト教弾圧にのめりこんでいくんです。もうこいつほどの鬼畜は私は知りません。ただこの地域一帯はもとからキリシタンが多い地域であったことは確かです。
幕府もキリシタン取締りで宣教師や信者を火あぶりにしたり、逆さつりの刑、釜茹で、雲仙地獄責め、竹鋸引きの刑、木馬責め、などなどもう目を背けたくなるようなものばかり。すぐに殺すことが目的ではなく、じっくりじっくり苦しめて、キリスト教を捨てさせることが目的です。雲仙の地獄攻めも熱湯温泉の中に放り込んだら死んでしまうので、体に傷を負わせ、温泉の熱湯をゆっくり体にかけるんです。火あぶりもゆっくり周辺の薪に火をつけて燻すようにじっくりじっくりです。そのまま死んでしまった者も数多く、キリスト教に殉じて死んだということで、殉教者と言います。あぶられ過ぎて口から煙を吐いて死んだとか。子供を抱いたまま火あぶりにされた女性もいました。
ああ、もう近くの陸自駐屯地の一個連隊送り込みたい。ドロンジョ様みたく「やっておしまい」って言いたい。もう胸が詰まりそうです。もうだめ、くるしい・・
1637年 島原の乱勃発
この大規模な反乱は、天草の一揆と合流して島原の廃城であった原城に立てこもります。一揆軍37000人(女子供含む)キリシタンや浪人、普通の農民などが周辺の城を落として武器弾薬、食料など奪い原城で籠城戦を行います。天草四郎は16歳の美少年とされていますが、実際指揮をしたり、作戦を練ったのはその父親や、浪人、一揆の主要メンバーです。天草四郎はキリシタンの結束を固めるため、説法を説いたり、皆を励ましたりという役割だったようです。原城は海に面している小高い丘といった感じ。三の丸、二の丸、本丸、その他出丸があり、幕府軍を迎え撃ちます。小高い山が横に連なるような感じ。
(当時は石垣できちんと城のようになっていたのですが、現在は乱後、幕府によって徹底的に壊されています。)本丸に行くには何度も曲がりくねった道を通り、上っていきます。曲がりくねることで敵兵の勢いを抑える役目があります。
各所に門があり、そこで幕府軍を足止めし左右や上から攻撃し撃退します。門周辺の事を虎口(こぐち)と言い、周囲を壁で囲まれているような形状を桝形虎口と言います。通常はまっすぐ進ませないように直角に門を配置したり、ずらして門を作ります。少しでも敵兵を手間取らせて、上や側面から攻撃します。幕府軍は3度、総攻撃を行うも敗北。その際総大将の板倉重昌は討死。次の総大将は幕府の老中松平信綱。いまだ指揮の高い一揆軍。この時幕府軍は12万いたが、これ以上の犠牲は何とか回避したい松平信綱は兵糧攻めに転ずる。12万の大軍で原城を完全に包囲。
更にオランダに頼み、オランダ軍艦で海から原城へ砲撃を加えてもらう。原城へ向けてトンネルを掘ったり、矢文や使者を送るなどして投降を呼びかけ、天草四郎の母姉に投降の手紙を書かせたりと直接の戦闘を避けようと必死だった。もちろん徐々に食料が尽きてきており、追い詰められ投降するものも後を絶たなかった。
もう食料もなく、もう少し兵糧攻めを続けるべきという意見と、長引かせることは幕府の威信にかかわるという意見がぶつかり、討伐軍総大将の松平信綱は総攻撃を決めた。一揆が始まって5か月後、4度目最後の総攻撃が始まった。一揆側37000人は皆殺しにされた。(絵師1名の生き残り)幕府軍は1万以上の犠牲。乱後この原城は幕府によって徹底的に壊されます。一揆の原因を作った暴君?板倉勝家は斬首されます。さすがに幕府もこの男は許してはならないと思ったのでしょう。通常、大名には、武士の面目やメンツと言ったことを重んじて切腹をさせるのですが、大名にたいして徳川幕府で唯一の斬首となりました。
出典:有馬キリシタン遺産記念館