アヘン戦争後、日本~李氏朝鮮のゴタゴタ、閔妃暗殺まで調べてみたよ

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1800年代後半、東アジアの大国として存在していた清国。その清国にも西欧列強は触手を伸ばしていく。1840年にイギリスと清国の間でアヘン戦争が起こり、西欧列強に侵食されていく清国。負けた原因は、西洋の情報不足と最新の軍事技術を取り入れようとしなかったことにある。情報は日本にも届けられた。幕末の日本、このまま鎖国をして攘夷(排外主義)を貫き、海外の知識や技術を取り入れないままでは、まずいと危機感を多くの人が持った。のちの黒船来航(1853)も含め、対外的な危機感を強め、倒幕から明治政府誕生(1868年)・・・そして維新、西洋化、富国強兵へと突き進んでいく。簡単に言えば、速く国として列強と肩を並べなければ、間違いなく餌食になるということである。

(出典:ウィキペディア)(アヘン戦争)

国と国において、条約と言うのが一つの関係性の尺度となっている。自分より遅れている、弱く小さな存在だと思われれば当然その条約の内容は、相手国優位な条約となる。それが不平等条約である。具体的には関税自主権を持たせない、治外法権を認めさせるなど。まだまだ対等でない、格下の国と世界から思われることになる。黒船来航により無理やり開国させられ、米国、英国、ロシア、フランス、オランダ、ドイツ(プロイセン)、イタリア、オーストリア、ハンガリーなどと次々と不平等な条約を結ばされることになる。日本としては悔しいですが、速く列強の仲間入りをしようと、西洋化、近代化に全力でひた走っているところなわけです。

(出典:ねずきちさんのひとりごと)(明治維新)

※幕末の日本は、拷問は当たり前で、刑罰として火あぶりがあり、取引においても契約の仕組み等がしっかり整備されていないなど、遅れている国なわけで、どう見ても、まだ対等に付き合えないなと思われても仕方がなかったわけです。

しかし、アジアでいち早く日本は近代化に成功します。力をつけ、少しずつ平等な条約へと替えさせていくわけです。徐々に発展、強くなっていく日本。少し前まで鎖国していた日本も、今度は外へ目が向くようになります。朝鮮です。当時は李氏朝鮮。日本は開国を嫌がる朝鮮に武力で脅しをかけようとする「征韓論」が勢いを増してきます。アメリカに無理やりされたことを今度は日本がしようとしているわけです。そんな中で起きたのが、江華島事件(1875年)です。日本の軍艦が朝鮮の首都「漢城」(現在のソウル)近郊で砲撃を受ける事件。相手が悪いと双方言い合っていますが、一応現在では日本側の挑発が原因とされている。この戦闘で日本側戦死1名、朝鮮側戦死35名出ています。この事件を機に日朝修好条規(1876年)が結ばれます。西洋列強にされたことをそのまま日本が朝鮮に対して不平等条約を結ばせました。これを契機に朝鮮はアメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、フランスとも次々と不平等条約を結ばされることになります。

李氏朝鮮政権内部のごたごた

(出典:ウィキペディア)(大院君)

1860代当時、朝鮮政府を担っていたのは国王高宗の父である「大院君」(ダイインクン)である。この大院君は清国に付き従うことで国を維持していこうという考えで、その他の外国は一切受け付けないという徹底した排外主義でした。実際フランスやアメリカ、ロシア等の要求を過去に拒否し追い返している。清国に対する西欧列強のやり方を隣で見ていながら、旧態依然としたやり方を変えることが出来ずにいた。さらにこの大院君、頭の痛い問題があった。自分の子供、国王「高宗」の妃である「閔妃:ビンヒ」である。閔妃は、自分の一族を政権中枢に次々と配し、大院君と仲たがいをしていった。次第に勢力を伸ばしていった閔妃一族は1873年に、大院君を排除し、実権を握るに至った。

閔妃は初め、大院君と同じく鎖国政策を取っていたが、日本に無理やり開国させられた形になった。同時に日本と仲良くしようという開化派の派閥が出来たり、清国と結ぶ保守派「事大党」が出来たり、ロシア派ができたりした。

1882年壬午軍乱(ジンゴグンラン)

閔妃は日本の支援を受け「別技軍」という近代的軍隊を新設した。待遇は良かったが、旧軍隊に対する配給の未払いが続いた為、不満が募り暴動へ至った。民衆も加わり、閔氏一族の屋敷、政府高官、日本公使館が襲撃された。王宮も例外ではなかった。閔妃は自室に侍女を入れ、毒物を飲ませ自分の身代わりにした。暴徒は皆、閔妃が毒で死んだと思っていた。その隙に閔妃は侍女の格好で暴徒の中をすり抜けていった。

(出典:ウィキペディア)(壬午軍乱)

一方暴徒に囲まれた日本公使館、在留日本人を保護しながら、朝鮮政府に護衛を要請するも、誰一人助けに来ない。暴徒に火を放たれた為、夜中に花房公使以下28名の日本人は公使館を脱出。観察使、王宮、仁川府と保護を求めさまよい、多数の死者を出しながら、漁船にて海上へ脱出。漂流している所をイギリス船に保護され、長崎へ帰還できた。

このとき生きて帰ってきた花房公使が兵隊をつれて、朝鮮政府との賠償交渉に臨む為に再び朝鮮へ渡ることになる。一方清国はと言うと、朝鮮と日本人被害者の保護ということで3000名の兵を派遣させた。花房全権による日本と朝鮮の賠償交渉は、命からがら逃げのびた花房公使の気迫で、ほぼ日本側の要求が受け入れられた(済物浦条約:さいもっぽ:仁川の旧名)。この花房公使、イケメンですねえ・・・

(出典:ウィキペディア)(花房公使)

閔妃を追い出した大院君は再び政権の座に就いたが、一か月後、大院君は清国に拉致され天津へ連行された。そして再び閔妃とその一族が政権へ帰り咲いた。この閔妃(嫁)と大院君(しゅうと)の争いなのですが、そのレベルが桁違いです。もう挨拶状代わりに暗殺者を送り込むというすさまじい攻防戦です。旦那の高宗はさぞかし肩身の狭い状態でしょう。

1884年甲申政変(コウシンセイヘン)

身分制度を廃止して、国の制度、教育、産業と大きく変貌させ近代化を成し遂げた日本を見習おうと、李氏朝鮮の若き官僚だった金玉均(キムオッキュン)は考えていた。彼は21歳で最難関の科挙試験に合格するというエリートである。日本へ遊学し福沢諭吉の支援を受け日本の有力者らから教えを受けた。日本をお手本とし朝鮮の近代化を目指して、彼が起こしたのが甲申政変である。日本公使の協力(日本兵150名)もあったが、予想に反し清国軍(1300人)がすぐに動き、わずか3日間でクーデター失敗に終わり、日本へ亡命した。

天津条約

甲申政変で日本人に多くの死者が出て、日清の両国関係は悪化。日清両軍の撤退と今後の出兵に際しては相手国に事前通知するという取り決めを行ったもの。日本としてはクーデータに加担していないふりをしつつ、日本人被害の責任を清国に追求したいという姿勢。ともあれ、両軍撤退し、ひとまずは緊張が解かれた。

1894金玉均(キムオッキュン)暗殺

福沢諭吉に大変気に入られていて、優秀な朝鮮の政治家だった金玉均(キムオッキュン)。日本の協力を得てクーデター(甲申事変)を起こすも失敗。その後日本へ亡命するも、日本政府からは冷遇され、裏切られた思いを抱いていた。朝鮮を日本のように近代化させ、独立国家として一人立ちできるような国家にしたいと考えていた。西洋列強を跳ね除け、清国、日本と共にアジアを盛り上げていこうとしていた。あと一歩だった。国の将来をきちんと考えている優秀な若者であった。一方では政権内は派閥争いで政治は乱れ、兵に配給も出来ないような財政状況。いつ大国に飲み込まれてもおかしくないような状況。トップを巡り常に妃と舅(しゅうと)が争っているのである。自らの権力、地位をいかに保持するかにしか興味がない連中である。日本へ亡命した金玉均は、閔妃の放った暗殺者に上海で暗殺されました。

(出典:ウィキペディア)(キムオッキュン:金玉均)

東学党の乱

朝鮮の農民による暴動。朝鮮政府が清国に救援を要請して兵を出すことになり、天津条約により、日本側も出兵した。とうの東学党の乱は収束したものの、日清両軍にらみ合ったまま、動かず。ピリピリした状態で、交渉が行われるが、戦争へと突入していく。日清ともに朝鮮での影響力を保ちたいという考えがあった。朝鮮としても、国内で戦争を起こされたくはなく、両軍にらみ合わせる所まで行かせてしまった責任は大きい。やはり、自国で解決する力を持つべきであった。日本政府は閔氏政権に内政改革を求めるも、受け入れず。日清戦争2日前に大院君を担ぎ出し新政権を樹立させた。

1894年日清戦争

日本によって政権から追われた閔妃は、ロシアと手を組み、日本を追い出そうとします。三国干渉で日本がロシアに屈すると、閔妃はますます親日派排除に動きました。1895年閔妃とその一族はロシア軍の力を借りて、クーデターを起こし再び政権に返り咲きました。日本を利用し、清国にくっつき、ロシアにべったり。その時々で誰に付いたら一番得をするか、生き残れるのか?考えているだけです。別にけなしているわけではなく、それだけ大陸で生き残るということは、大変なことなわけです。最初日本の支援を受けていて、清国に付いたかと思えば、超大国のロシアを連れてくるイケスカない女と、日本人にはそう見えてしまいます。強い方に付くというのは、生き残りという観点から見れば当然と言えば当然ですが・・・

1895年閔妃暗殺(乙未事変)

三浦悟楼公使率いる日本軍守備隊、領事館警察隊、朝鮮親衛隊らが王宮へ乱入し閔妃を暗殺したとされる。

(出典:ウィキペディア)(閔妃)

あとがき

朝鮮半島の歴史って意外と知らないので、今回いろいろ調べてみました。朝鮮もいろいろ大変ですね。でもアヘン戦争の破壊力はやっぱりすごいと思うんですよね。薬物売買する不良がクラスにいたら、ものすごく緊張感高まりますよね。理由はないけど、ランニング始めたり、筋トレ開始したり、格闘技習いだしたりする人、増えますよね。あと、クラブ活動行き始めたり、学級委員と仲良くしたり・・・国際関係における安全保障の話って、実は子供のころから繰り返してきている話であって、大人だろうが子供だろうが何ら変わりがないということだと思うんです。ほとんどの人は、こっち来るなよって思いながらびくびく過ごすわけです。でもたまに正義感の強い柔道部主将みたいな人が、そんな弱いものいじめせんで、柔道で一緒に汗かかんかねって言うんですよ。たぶん・・・

でも弱い人は必死で生き残りをかけて戦います。泣いたり笑ったり、悔しい思いも一杯しますが、悪い人も含めて人は成長していきます。時代のせいと言うのは簡単ですが、その時々において全力で考えて、必死で行動したいものです。

(参照:ウィキペディア、世界史の窓、その他)

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