独裁者ポルポトについて調べてみたよ  カンボジアの悲劇

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20世紀の独裁者というのは、ヒトラーだったり、スターリンだったりが有名です。ヒトラーは演説の上手い、人を乗せるのが上手い。スターリンは只々、意地の悪い、腹黒いといったイメージがあります。(私のイメージですが)絶対に自分は、独裁者なんかにならない!って人いると思いますが、力を持ったとき、本当にそう言い切れるでしょうか。大なり小なりあるでしょうが、仲良しグループ、サークルにおいて。。。無意識に相手との関係性においてマウントを取ろうとしてしまいませんか。自分が少しでも有利になる立ち位置を確保するように考えを巡らせてしまいませんか。殆どの人は疲れるから、そういう関係性になりそうなときは離れて行くんですけど。。。切れない場合もあって、注意してても中々難しい。。。ポルポトも普通の人だった。温厚で優しく、おとなしい普通の少年だった。大きくなっても彼を知っている人は、みなそう言う。裕福な育ちで留学もしていますが、エリートというわけでもなく、受験でも失敗しているどこにでもいる青年でした。

(出典:ウィキペディア)

ただ、少し違うのは、別に国のトップになっても、大きな宮殿に住むわけでもなく、豪勢な生活をするわけでもなく、自分の私利私欲の為という感じが見られないこと。ちょっと人間ぽくないというか、汚らしい欲が感じられない。まだ欲にまみれた人のほうが、動きが予測できます。ポルポトはどちらかというと、理想に燃えた、ただただ、いい住みよい国を作りたかったというだけのような気がします。それだけに手に負えないといったところでしょうか。当時のカンボジアの人口が800万人で、ポルポトによる犠牲者は150万人と言われます。まさに5人に1人が犠牲になりました。5人家族ならお父さんが殺されたといった具合です。(資料によっては、1/3、1/4と書かれているものもある。犠牲者100万〜250万)

ポルポトは1928年、フランス領のカンボジア生まれ。本名はサロットサル。ある程度恵まれた農家の9人兄弟の8番目として育つ。彼が共産主義に目覚めたのは、フランスに留学してから。カンボジアに戻った彼は共産主義活動にのめり込んでいく。

(出典:グーグルマップ)

1945年には日本軍が来てフランス支配を終わらせたのですが、すぐに日本が敗戦し、再びフランスに支配されます。フランスから独立できたのは1953年。シハヌーク独裁体制が始まる。ベトナム戦争でシハヌークは北側を支援する形を取ったため、アメリカと関係が悪化。1970年アメリカの支援でロンノル将軍がクーデターを起こし政権を取る。今度はシハヌークと手を組んだポルポト率いるクメールルージュが勢力を拡大し1975年首都プノンペンを陥落させ、民主カンプチアを立ち上げた。

1975年4月〜3年8ヶ月、ポルポト政権

1975年4月17日 プノンペンにクメールルージュという過激派組織が入って来る。プノンペンは当時人口200万人を超える首都でした。人々はクメールルージュを歓迎しましたが、その日の夕方には、家を追い出され農村部へ移住させられました。200万人です。当然歩いてです。

(出典:CHEERFUL SMILE)

ポルポトが一体何をしたかったのかというと、原始共産制という皆平等で原始的な生活、農業による生活を皆で行うことで国を良くしていこうというもの。(カンボジア山岳先住民族の自給自足の生活を理想とした)原始的な生活で、皆平等な共産主義国家建設の為には、資本主義はいらない。私有財産は没収。貨幣も廃止。学校、病院、工場の閉鎖。派手な洋服なんていらない。皆、薄灰色に染めた簡素な農民服。

(出典:最初に父が殺された)

首都に住んでいて、当然農作業とかしたことない人ばかり。銀行員、教師、記者、役人、バーテンダー、ウエイター、工場労働者、営業マン、学生、主婦など… ごくごく普通の人たちばかりである。数日から数週間歩かせられた。いきなりすべて奪われて、農村部へ連れて行かれた。たった3日でプノンペンは無人となった。大きく分けて農村部に住んでいる人は旧人民、都市部に住んで西洋文化にかぶれていたり、知識のあるような人を新人民と区分けされた。新人民は農村部へ強制移住させられ、旧人民から監視されるような形になった。その上にオンカーと言われる組織の指導部が存在し、オンカーの言うことは絶対であり、唯一の家族とされた。

(出典:最初に父が殺された)

理想の国造りは、まだまだ続く。資本主義、西洋の考えに毒された大人と一緒にいてはいけないということで、子供と別々に暮らし、男女も別々。独裁体制下ではよく起こる知識階級に対する弾圧も行われた。理想の国家である原始社会に戻す為、知識を持っていた学者、記者、役人、先生など次々と処刑されていった。(愚民政策)しまいには、頭が良さそうだから、メガネをしていたり、腕時計をしていたり、文字が読めるという理由だけで処刑された。国造りを手伝ってほしいと言って、海外へ留学していた若者を呼び戻し、皆殺しにする。

(出典:最初に父が殺された)(多くの子供が兵士に)

1974年当時、学生だったメイさんは、難しい試験にパスし日本の留学生に選ばれた。ポルポト政権樹立する前年だった。神戸大学で開発学を学んでいたメイさん。家族にも連絡がつかなくなっていた。1978年ポルポト政権の幹部が日本へ来て留学生に「国のために帰ってほしい」と説得した。かすかに伝わってきていた情報から、危険な匂いを察知したメイさんは帰国しなかった。日本の商社で働き、その後国連職員になり、留学して19年後の1993年、再びカンボジアに戻ることができ、生き残った家族と再会した。9人家族のうち、5人が亡くなっていた。父は連行され、1男は動員後不明、母、5男は消息不明、4男は餓死。母は、自分を犠牲にして子どもたちを逃してくれ、3兄弟助かったのだった。メイさんは2008年国連を退職し、現在カンボジアの復興に力を尽くしている。

(参考:GLOBE)

原始の生活、皆平等な農業での国づくりを理想としているため、文明の利器はすべて廃棄。必要な用水路、ダムなどは手作業で行う。虐殺に加え、飢餓や栄養失調などで多くの人が犠牲となった。

(出典:ニューズウィーク)

 独裁体制下で必ずといっていいほど起こるのが、粛清である。自身の政策がうまく行かないのは内部に裏切り者がいるせいだと思い込み、疑心暗鬼に陥り、党幹部から一般の兵士、人民と大量虐殺に繫がる。純粋な子供らを洗脳し、たとえ親であっても怪しければ通報するように仕向けさせた。怪しまれた人は収容所へ連れて行かれ、拷問につぐ拷問で白状するまで続いた。もう何を白状させるかなんて、どうでもいいのだ。反体制の思想、原始共産主義に反するようなことを自白させ、報告書に残せればそれでいいのだ。農村部では当然身分を隠しているのですが、「クメールルージュは君たちを許す」という嘘に騙されて身分を明かしてしまい、多くの教師や記者、医者などが殺されました。

理由は何でもいい。ポルポト以下全員が国を良くするためなんだという洗脳にかかっている状況。ポルポト政権は当然お金がない、弾薬ももったいないので、農機具やハンマー、ペンチ、バット、ヤシの木の皮などによる拷問、虐殺が行われた。理由は決まって「再教育が決まったから」と言って連れ出す。音が漏れたらまずいと言うことで、音楽を大音量で流していた。赤ん坊を母親から奪い取り、足を持って木に叩きつけ殺します。「キリングツリー」と言われます。当然母親は気が触れます。

大きな穴に死体を入れて、土をかける。そういった「キリングフィールド」はカンボジア全土で300箇所を超える。彼らの言う汚れた大人がどんどん殺され、党の幹部も粛清し、しまいには党の要職にも子供がついたとか。医者も粛清されて、代わりに何も知識のない子供が医者をすることになったとか。医学書はあっても、文字の読めない子供の医者がそこにいて、診察していたとか。。。

(出典:カンボジアゴーゴー)

独裁者というのは悲しい生き物。自分の考え方に心の底から傾倒してくれ、信頼してくれ、支えてくれるのはもう、純粋無垢な子供らだけだったのでしょう。軍も子供兵士が多く、指揮系統も混乱していました。1978年12月にベトナム軍が大規模攻撃を仕掛けると、2週間でカンボジア軍の半数を失い撤退。プノンペンはベトナム軍に落ちました。ポルポトはタイ国境付近のジャングルへ逃れ、次にカンボジアの政権を取ったのは、以前ポルポトの部下で途中反旗を翻したヘンサムリンでした。ヘンサムリン政権が誕生しても、ポルポト率いるクメールルージュはジャングルで、ゲリラ活動を継続。1996年にはNo2のイエンサリを含む兵士が大量離反し政府軍へ投降している。1997年には政府と和解交渉を進めていた腹心ソンセンに腹をたて、一族もろとも殺害する。1998年心臓発作で死去となっているが、爪の変色があったため、口封じの毒殺の可能性も指摘されている。

(出典:世界雑学ノート)

ポルポト年表

  • 1928 ポルポト誕生
  • 1949 フランス留学
  • 1953 カンボジアへ帰国
  • 1960 労働者党中央常任委員
  • 1970 ロンノル将軍が政権奪取
  • 1975 クメールルージュ、プノンペン占領
  • 1979 プノンペン、ベトナム軍に占領される 
  • 1996 No2イエンサリ含む兵士大量離反
  • 1997 腹心ソンセン一族殺害
  • 1998 死去(毒殺の可能性あり)

あとがき

映画「最初に父が殺された」見ました。実話です。すごいです。少女の視点から見たカンボジアポルポト政権下での過酷な共同生活がリアルで恐ろしいです。

(出典:最初に父が殺された)

映画「キリングフィールド」は実話を元に作られました。米国ジャーナリストと助手のカンボジア人の話。その助手を救うために奮闘します。たった45年前の出来事です。今も国際機関による調査が続いています。当然やった側は多くを語りたがりません。被害者と加害者が普通に暮らしている状態が続いています。

(出典:キリングフィールド)

当時情報が外へ出なかったのは、国が閉鎖されていたのもありますが、あまりにすごすぎて説明しても理解してくれなかったからだとか。資料によって犠牲者数は様々ですが、おそらく国民の1/5辺りと思われます。5人家族で考えれば、全ての家庭でお父さんがいないということになり、医者、党幹部、兵士に子供が起用されたと言うのも頷けます。子供の気分で診察され、国の重要な決定が未熟な子供によってなされます。子供ばかりの軍隊じゃあベトナム軍もさぞかし拍子抜けしたことでしょう。何を考えていたのか、よくわかりません。ここまで来るのに誰も止めなかったのか?おかしいって、誰も言わなかったのか?これが世紀の独裁者の一人なのか…学校でちょっと勉強でつまづいただけ…それで知識人を憎んだのか???周りを言うことを聞く子供だらけにしてそれで安心を得たのか???独裁者が自分の体制を守るためにまず知識人を排除するのはよくある。体制批判をされると困るから。でもポルポトはたぶんイメージが先行してると思う。頭の中に理想郷があって、原始時代、みんなで手作業で仕事して、農作業に従事して、みんな平等で幸せだったに違いないっていう思い込み。イメージに合わない人をただ排除していったのではないか。こんなのが国のトップについたのは事実。究極に純粋で、壊れた大きな子供だ。こんなのの為に多くの人が犠牲になったのか…

追記 

虐殺をした人は、兵士や、オンカーに指示された地元の農民(旧人民)です。上から言われて仕方なく、数多くの人々を拷問し、撲殺しました。そういった罪を犯した人は、再教育され無罪放免となっています。そういうのを「無知だから」で済ましていいのか、私には良くわかりません。

(出典:ウィキペディア、他)

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