日清戦争で弱小日本に負けた清国は、列強から弱いと思われ、強硬に中国分割が進んでいく。列強国の商品を買わされ、土地を租借され、鉄道施設権、鉱山採掘権などの利権(借金の抵当)が奪われ、危機感は大きかったと思われる。悪いのは土足で上がり込んでくる列強国である。それは間違いない。一般国民、清国政府関係なく、列強に対する不満が募る中、ある事件が起こる。ドイツの教会に土地を取られた人が、地元の拳法道場、剣術道場に何とかしてくれと、頼み込む。それが1897年。格闘集団(義和団)が教会へ押し入り、神父を撲殺した。そういった事件が次々と起こり、初めは清国政府もこの義和団を武力で鎮圧するものの、次第に勢力を増してきた義和団に手を焼くようになる。しまいには20万にも達した義和団が北京にまで来た。各国の大使館員までも殺害されてしまう。ここで清国の西太后が何を血迷ったのか、義和団を支持し、西欧列強に宣戦布告をしてしまう。もちろん列強国が気に入らないのは良くわかるが、8か国以上の列強国相手に勝てるわけもなく、正気の沙汰でない。
1900年6月21日 清国による西欧列強へ宣戦布告、各地で戦争が始まったが、最も死を覚悟したのは、北京の公使館区域に立てこもる人達であった。北京籠城55日間である。この公使館区域に籠城したのは、外国人1000人弱、中国人クリスチャンは約3000人。戦ったのは、各国の護衛兵と義勇兵は合わせて約500名だった。この500名が約3500人の命を救うために戦った。実際大半は大使館関係者とその家族等の普通の民間人であった。区域外には1万を超える義和団と清国軍。20倍の兵力差。普通はもう、絶対絶望であるこの状態。応援部隊が来るまで、いかにして55日間も籠城出来たのか?
この公使館区域に公使館を構えていたのは11か国。
この写真の一番右にいるのが、日本兵である。背の低い順に並ばされたのだろう。アメリカやイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリーなどの西欧列強国と一番端とはいえ、日本が肩を並べている。しかし、西欧の列強にはまだまだ追いつけず、周りの白人からは格下と思われており、軽く見られていた。たまたま弱い清国に日清戦争で勝っただけの東洋の小さい国・・・程度かな・・・写真からも分かるように、東洋の小男という感じで見られていた。しかし、この北京籠城戦で日本の見られ方が、180度変わることになる。
会津藩出身の柴五郎中佐
北京籠城戦において、総指揮官はイギリスのマクドナルド公使。しかし実質的な指揮は駐在武官だった柴五郎中佐(当時40歳)だった。数か国語を操るこの柴五郎中佐は、戦闘の指揮、作戦の立案、見張り、負傷者の救助、防衛網構築、スパイを送り込むなど主導的な立場だった。また皆とコミュニケーションが取れる為、次第に大きな信頼を得て行った。柴五郎中佐と日本兵は、重要な王府の防衛を任された。
女、子供、老人、怪我人などは比較的安全なイギリス公使館に避難していた。有るとき、イギリス公使館正面の壁を突破された。敵兵がドッと侵入してくる。そのとき、柴中佐の指示を受けて駆け付けた安藤大尉はサーベルを抜いて、斬りかかる。安藤大尉は居合の達人であった。バッタバッタと切り倒す。他の日本兵も勇猛果敢にとびかかる。他国の兵や、女子供、怪我人などみんなが見ている前でのこの日本兵の活躍は、広く知られるところとなった。
北京籠城戦の総指揮はイギリスのマクドナルド公使である。まじかでこの柴中佐と勇猛果敢な日本兵を目の当たりにして、心底この日本の人達を信頼していた。このマクドナルド公使、のちに日本の駐日大使となり、あの大英帝国と日本の対等な同盟「日英同盟」を強力に推し進める立役者の一人となるのである。戦い方を見て、いかに当時の日本人が信頼のおける人達であるか、同盟を組むに値する国であるかを感じたのだろう。
北京籠城戦55日経過して、各国の救援部隊が次々と公使館区域に入ってくる。その様子を見てどれだけホッとしたであろうか。兵を派遣した8か国の指揮官会議でマクドナルド公使は、籠城戦の経過を説明後、「籠城成功の半分は、勇敢な日本将兵によるものである」と付け加えた。このことを伝え聞いた日本兵は涙を流した。
のちに柴中佐は、欧米各国から様々な勲章を授与された。
もちろん、早く援軍さえ来れば、こんな苦労することは無かった。各地での戦闘や義和団が線路を破壊するなどした為、救援に駆けつけるのに時間がかかったのである。終結後、西太后は北京から逃亡した。
初めにも書いたが、時代とはいえ悪いのは列強である。自分より下だとみて、土足で上がり込み旨みだけを吸い尽くす列強国のやり方は、批判されてしかるべきである。人も国も同じである。格下だと思えば、馬鹿にし踏みにじる。実際、批判を交わすため、この戦いで得た賠償金を、列強は清国へ大学や病院などの建設などの形で、還元している。
(参照:ウィキペディア、世界史の窓、ねずきちさんのブログ、他)