ファランクスー徳島の阿波踊りって密集陣形では!と思った方へ。そうです、ファランクスです。

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徳島阿波踊りとは

一度会社の社内旅行で連れて行ってもらい、阿波踊り体験したことがありました。感謝感謝。

(出典:徳島新聞)


毎年8月12日~8月15日まで徳島県徳島市で行われる徳島最大のまつり。人口26万人の徳島市に毎年、全国から100万人以上の観光客が押し寄せる。徳島駅前、18時~23時の間は阿波踊り一色となる。江戸時代より400年間続く日本の伝統芸能である。

(出典:CAPA CAMERA WEB)

三味線、太鼓、鉦鼓、篠笛などの2拍子の伴奏にのって連と呼ばれる踊り手集団が踊り歩く。「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよい、踊るあほうに見るあほう、同じ阿呆なら踊らなそんそん。」「ヤットサーヤットサー」等の掛け声がある。徳島県の小学、中学、高校で、体育の授業や、体育祭で踊ることも多い。精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれる。1586年、徳島城竣工に際し、阿波国大名蜂須賀家政が「城の完成祝いとして、好きに踊れ」というお触れをを出したことが発祥(一説)とされる。途中一揆に繋がるとして禁止したり、戦時中も禁止されるなどした経緯がある。しかし全国に盆踊りといわれるお祭りは数あれど、これほどの規模はそうない。。お殿様の「好きに踊れ」の一言から今や全国から100万人が集まるほどの大規模でかつ日本三大盆踊りと言われるまでになった。現在、日本各地に、そして世界、フランスやタイに阿波踊りが広がっている。蜂須賀家政も、よもや433年間も続くとは、世界に広がるとは、思っても見なかっただろう。

(出典:HPなみじゃない杉並!)

参照:ウィキペディア、他

ファランクス(phalanx)とは

古代ギリシアなどで用いられた重装歩兵による密集陣形。左手に盾、右手に槍を持つ。盾で自分の左半身と左横の兵士の右半身を防御する。一般的に横に8~12名程度、縦に3~12列。(古代ギリシア、クセノポン時代スパルタにおけるファランクス部隊編成の場合)

(出典:戦車兵のブログ)

12人一列×3列縦隊(36人)=1個エノーモティア
4個エノーモティア=1個ロコス(144人)
4個ロコス=1個モラ(576人)
6個モラ=1個軍団(3456人)
最右翼にスパルタ王が布陣

(出典:300)

左手に盾をもって、左隣の人の右半身を守るわけですので、部隊の最右翼の人は右半身が丸裸になります。それゆえ、最右翼に位置する人はそれなりの猛者、ベテランが位置していました。そこにスパルタ王がいるわけですので、部隊の士気の高さは半端なものではなかったでしょう。前の人が倒れれば、後ろの人が前へ出ます。自分の盾の半分は左隣の人の命の半分を守っているわけです。自分の命の半分は右隣の人が守ってくれているわけです。だから敵はなんとしても防御のない最右翼から崩そうとするわけです。スパルタ側は、盾のない右側面に回り込まれないように右にずれる傾向があったが、横の列がずれないよう、笛の音に合わせて歩調を取りながら前進した。密集陣形であるため、機動性に乏しく、回り込まれたり、多方向からの攻撃に弱いが、正面攻撃には非常に威力を発揮した。

(出典:300)

この陣形が最も威力を発揮した戦いの一つとして、紀元前480年のペルシアがギリシア侵攻したペルシア戦争におけるテルモピュライの戦いである。ギリシア側(レオニダス王)は兵力7000。一方アケメネス朝ペルシア軍(クセルクセス王)は6万~30万。(専門家によって意見が分かれる)。当然ギリシア側の敗北となるのですが、最後はスパルタ重装歩兵300人を中心に約1400名のギリシア軍が、数十倍のペルシア軍を相手に3日間持ちこたえた。

(出典:300)

最初ここまでの兵力差で戦うとは思わず、降参するのを待っていたペルシア軍だが、一向に降参する気配がない。痺れを切らしたクセルクセス王が、攻撃命令を出す。スパルタは数の上では劣るので、山と絶壁に囲まれた細い道に陣取り、密集陣形(ファランクス)で迎え撃つ。数で勝るペルシア軍であるが、行けども行けども返り討ちにされ、被害が拡大するばかり。そこでペルシア軍精鋭部隊「不死部隊」を投入するも失敗。そうしている間に、山を越えてスパルタの布陣の裏側へ回れる抜け道の情報がペルシア側へ入った。すぐさま回り込まれ、挟み撃ちにされることが分かっても、撤退することなく、最後の一兵まで戦い続けた。最終日だけでペルシア軍は2万人以上戦死者がでたとか。スパルタ側の余りの強さに、前へ出る兵士がいなくなった。しかし最後は、多方面からの攻撃と弓矢による攻撃でスパルタ兵は全滅した。

(出典:300)

スパルタ

古代ギリシャの都市国家ポリスのひとつ。世界最強を誇る重装歩兵部隊を持つ。兵力増強の観点から7歳になると厳しい軍事訓練を受けなければならなかった。対極にあるのが、アテナイ(現アテネ)の考え方で、自由や芸術、弁論を尊重した教育。スパルタの教育が余りにも過酷でここからスパルタ教育という言葉が広まった。

(出典:300)

(参照:ウィキぺディア、他)

いろいろ思うこと

紀元前480年というと、ちょうど2500年前ってことですよね。2500年前にスパルタで、もし生まれていたらと思うとぞっとします。「腕立て30回!」とかいうレベルじゃないんでしょうね。7歳ですよ。7歳。今から足し算、引き算、漢字とか習う子供ですよ。ただこの国は強かった。強すぎて誰も攻め込もうと思わなかったとか。でしょうね、としか言えない。・・・平和って・・・何なんでしょうね・・・テレビで阿波踊りのニュースを見て、ふと考えこんでしまいました。あ、もう一つ、阿波踊りは前進したり、向き変えたりしていますが、ファランクスの密集陣形では、前進出来ても非常に遅く、方向転換はかなり至難の業ということを付け加えておきます。

スパルタ兵vs鎌倉武士???

なんかネットでスパルタ兵300人対鎌倉武士300人、どっちが強いかというのがありました。騎兵で回りこむとか、弓矢で倒すとか、現実を見据えた良い戦法もあれば、自衛隊のが強いとか、デルタフォースが最強とか、「目が点」になるような意見も多数。まあ、阿波踊り見て、ファランクス想像するよりは、ましか・・・(徳島の方、すみません・・・)でも実際、スパルタ兵と鎌倉武士が戦ったら、どうなったんでしょう。

鎌倉武士が「やあやあ我こそは・・・どこどこ出身で誰誰の息子の〇〇・・・いざ、腕に覚えの者よ、手合わせ願う!」って口上を述べているのを、スパルタ兵は槍で突き刺したいんだけど、ファランクス陣形を保つために、少しづつしか前進出来ず。鎌倉武士は誰か出てこないのかな?って待ちつつ・・・スパルタ兵は少しずつしか前進出来ず・・・おそらく一対一ならスパルタ兵は槍から剣に持ち替えて戦うでしょうから、おそらく一対一では鎌倉武士のが強いのかなと思うのですが・・・敵わないとなればまた、スパルタ兵はファランクス陣形を取るでしょう。誰が見ても正面攻撃は無理と感じるでしょうから、側面に回ったり、弓矢となるのでしょう。しかし上記のテルモピュライの戦いでは、スパルタ兵300名主力のギリシア連合が数十倍の数のペルシア軍を20000人以上倒しています。乱戦になっても、とても簡単に倒せる相手ではありません。弓が来たら盾で守り、正面からはファランクス、回り込まれたら剣で戦い乱戦に持ち込む・・・それを繰り返されたら、鎌倉武士ピンチですね。もうこうなったら、時代を超えて、柳生十兵衛か、宮本武蔵か、新選組の近藤勇クラスの剣豪においで願うしかありませんね。

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