ルワンダ大虐殺って何?虐殺って独裁者が行うものと思ってたけど・・・国連は?

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ソマリアでの失敗

ソマリア内戦からその後
1988年から内戦状態
1991年6月北ソマリアが分離独立
1992年暫定政権が国連にPKO要請。アメリカ中心の多国籍軍が派遣される
1993年10月モガディッシュの戦闘。作戦自体は成功だが、被害が大きすぎ、米軍撤退に繋がる。
1995年3月国連PKO部隊撤退。ソマリアへの介入は失敗に終わった。ソマリアを世界が見捨てたと言われる。

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この失敗でアメリカや国連は、軍の派遣に慎重になっていき、1994年のルワンダの大虐殺を傍観するに至った。

どれほどの人が助けてって言ったのだろうか?
力を持つ者の責任って、どうなのか?
その間、何をしていたのか?

陸上の派遣は、被害が大きくなるので、アメリカはミサイル攻撃や無人機開発に進んでいった。ルワンダへの介入には非常に消極的であった。

ルワンダ年表

1990年10月1日  RPFがルワンダ北部へ侵攻:ルワンダ内戦

1993年8月4日  アル―シャ協定が締結(和平合意)

1993年10月5日  国連ルワンダ支援団設立

1993年11月   国連ルワンダ支援団が展開。2500名からなる部隊。司令官ロメオダレール。

1994年1月11日

国際連合ルワンダ支援団ロメオ・ダレール少将が国連事務総長にツチ絶滅のフツ計画の報告をし、武器貯蔵場所制圧計画を提出。国連はこの計画を却下。ダレール少将に情報を提供した人物とは以後連絡が取れず。

(出典:HKennedyの見た世界)(ロメオダレール少将)

1994年2月21日

公共建設大臣暗殺。その翌日、報復で共和国防衛同盟の要人殺害

1994年4月6日

ルワンダのハビャリマナ大統領の乗る飛行機が撃墜。ルワンダ愛国戦線RPF(ツチ派)と過激派フツの双方が非難しあう。

1994年4月7日

大統領警備隊によるラジオ局占拠。ベルギー小隊10名武装解除させ、拷問後殺害。各大臣、首相、裁判所長官、政党党首、数多くの穏健派要人が大統領警備隊により、家族とともにつぎつぎ殺害される。ジェノサイド勃発。各国自国民を避難させ、大使館を放棄。国営ラジオは人々に外出しないよう呼び掛け。フツ派のラジオ局はジェノサイドを煽る。ダレール少将、国連支援団は逃げ込んでくるツチを保護。

1994年4月9日

欧州軍1000人が、ヨーロッパ人の避難のためルワンダへ入る。欧米人とその大使、次々と国外へ退去。ワシントンポストがルワンダでの事件を報道。

(出典:HKennedyの見た世界)

ブタレ県:ルワンダ12県のうちの一つ。国内で唯一ツチ出身知事で虐殺に最後まで反対し、処刑されるまでの10日間、このブタレ県だけは(約10日間)平穏が保たれた。

4月6日~7月中旬までの100日間でツチ族を中心に、フツ族の穏健派(裏切者)合わせて80万~100万人が犠牲になった。協力しなければ裏切者になる。ナタをもって隣人であろうが、子供であろうが関係なかった。

1994年4月中旬

ダレール少将の人員増強の要請も国連はことごとく却下。それどころか外国人の避難のみを指示され、また国連支援団も270人にまで減らす決定(1994/4/21国連決議912)がなされた。2000人のツチが避難していた公立学校から平和維持部隊が撤退。同時に周囲を囲んでいたフツが学校へなだれ込んでくる。ダレール少将は指示に背き、駐屯地に逃げてきたツチの保護を続ける。

1994年6月22日

国連決議929によりフランス軍中心の多国籍軍派遣の決定

1994年7月

RPF(ルワンダ愛国戦線(ツチ派))がルワンダ全土をほぼ掌握する。

ダレール少将その後

ダレール少将は1994年8月に司令官を離任。カナダへ帰国。PTSDに悩まされる。2000年に睡眠薬で服毒自殺を図るも一命をとりとめた。

(参照:ウィキペディア、他)

いろいろ思うこと

キガリ公立技術学校で2000人のツチを保護している国連平和維持軍が撤退。周りは銃やナタを持ってる連中で囲まれているのにである。兵士にも、ものすごい葛藤があったのは分かるが、絶対に撤退してはいけなかった。国連撤退の様子を見ながら、周りのナタをもったフツが、「フツパワー」と叫びながら、今か今かと狂気乱舞している。避難民は、国連に対して出ていくなら、銃で殺してから出て行ってくれと懇願した。ある避難所では投石の為の石を集めていた。石を投げて、フツの侵入を必死で防いでいた。しかし時間とともに、銃を持った民兵が集結し始める。合図とともに一斉射撃。そしてナタを持った連中がどっと侵入してきて、皆殺しにされた。

学校、協会、病院などの公共施設がツチの避難所として、行政から指示された。それを信用して集まったツチを虐殺する為に、市長自ら、軍、警察、民兵を率いて乗り込んできた。神父や尼僧までもが、民兵に協力していた。

まさに地獄の様相であるが、一つ救いがあるとすれば、全ての一般住民が殺害に協力的であったとは言えない点。殺害を拒否するような穏健派フツも、過激派から狙われ、多数が殺された。脅され止む無く協力した人も多い。殺害には関わっていないものの、村から追いだし、避難所へ行かせ、そこで犠牲者にさせてしまうなど、間接的な協力も多い。

RPFとツチを同一視させられ、ラジオや雑誌等で長年かけて、洗脳やプロパガンダのように、フツの人々の考えを支配し、ツチを敵視するように持っていかれた。RPFの侵攻でルワンダ内戦が1990年に始まり、RPFに国が取られたら、我々フツが皆、殺されてしまうという恐怖感も併せて浸透させていった。多くの研究者がジェノサイド勃発の原因を探っているが、こういった洗脳も原因の一つとしてあげられる。

(出典:ウィキペディア、2005年以前のルワンダ行政区)

唯一、最初10日間平穏を保っていたブタレ県

国中で虐殺が行われている中、唯一最初の10日間平穏を保っていたブタレ県。国内唯一のツチ派の知事。アメリカで工学博士号を取得した後、帰国。大学で教鞭を取っていた。1992年7月にブタレ県知事に任命される。ブタレ県(州)人口74万人。内ツチ人口13万人。人口比約17%。国内で一番比率が高い県。

ブタレ県知事がもし、ツチを一か所に集め、県内の全ての武器を住民に持たせて周囲を守らせたら、生き延びることが出来たでしょうか?もちろん周りはフツも一杯でしょうから、なかなか難しいのは分かります。でも捕まったら、自分も家族も殺されるわけですので、裏でツチに指示して水と食料と武器と弾薬を集めたら、どうだったのか?対抗できたか?大きな体育館みたいなところで、国連が動くまで持ちこたえられないか?知事では、軍を動かせない?警察組織は?裏工作出来なかったのか?でもこの知事、10日間どれほど怖かったろうと思います。国内、他県の虐殺情報はどんどん入ってきたでしょう。中央政府からは指示を実行しろと言われ、全てを投げ出し、逃げたかったに違いありません。ツチとはいえ、ツチだからこそ一人反対し続けた。その後すぐに拘束され処刑された。ツチ系の多い地域で、多くのツチも虐殺と同時に逃げ込んで来ていたので、ツチの割合が他地域と比べ多くなっていた。それだけに、中央から精鋭部隊が送り込まれ、ブタレ知事が処刑され、虐殺が始まると、最終的に他地域よりも被害が多くなった。はじめ知事の反対により持ちこたえていただけに、残念でならない。

(出典:ウィキペディア)

1994年当時のルワンダ総人口730万人。4月~7月の3か月間で人口の12%前後が殺害された。対象はツチ族と虐殺に反対する穏健派フツに対してである。アフリカ中央部の非常に小さな国。国土は26000平方キロメートル。首都はキガリ。その他11の県で構成されていた。(2006年からは5つの州に再編される。)

民族の分け方(参考:ウィキペディア、他)

国民の84%フツ族、15%がツチ族、1%がトゥワ族。最初からこのような部族がいたわけではなく、19世紀ヨーロッパ人がこの地にやってきた時に、ハム仮説に基づき人種分けしたもの。出身、農耕民族か放牧民族か、背丈、顔立ち、体型、肌色などの身体的特徴から分けられただけである。ルワンダの宗主国となったベルギーが、国を治めやすくするため、少数派のツチ族を優遇。ほぼすべての首長をツチにし、税、教育、労役面で優遇した。1930年代にIDカード制を導入し、はっきりと民族が分かるようにした。この区分けがルワンダにおける全ての対立の始まりと言っても過言ではない。

アメリカ

アメリカはソマリアでの失敗で怖がっていた。行かなければいけないのは分かっていたのに、見て見ぬふりをした。アメリカが行かなければ、他の国はもっと行かない。情勢が緊迫し次々に帰って行った。残されたこのツチの人たちが、どうなるか分かり切っていた。どれだけ助けてって言ったのだろう。出て行ってから2か月、もう虐殺の大半が終わってから、PKO国連軍が戻ってきた。なんて馬鹿なことを。なんで引いたか。意地でも引いてはいけなかった。モガディッシュの戦闘での、ランディーシュガート一等軍曹とゲイリーゴードン曹長がいたら、多分一歩たりとも引かなかっただろうと思う。

国連・アナン氏

当時の国連のPKOの責任者はコフィ・アナン氏。様々な功績から2001年にノーベル平和賞を受賞したが、ルワンダのジェノサイドを防げなかったということでも知られる。アナン氏にとっての負の遺産として批判されることも多いが、当時情報が錯そうし、被害を抑えたいという思いで揺れ動いたギリギリの選択であったと擁護する声もある。

RPFとは:調査中

インテラハムウエとは:調査中

現在のルワンダ:調査中

いろいろ調べながら書いていますが、あまりに複雑で理解に苦しんでいる状況です。現在はIT産業を中心に大変発展している様子ですが、問題も非常に多く、過去の惨劇を教訓に明るい未来へ進んでいるのか、まだ良く分からないというのが、感想です。誤記があれば何なりと、申しつけ下さい。また詳細等教えて頂ければ幸いです。

参考資料:ウィキペディア、ルワンダにおける1994年のジェノサイド(徳島大学総合科学部)、なぜルワンダのジェノサイドは起きたのか(大阪大学:加藤佑太朗)、ブタレの虐殺(竹内進一)

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